いたちごっこの、モグラ叩き
暴走バイクの仲間も似たような境遇の連中が多かったので、仲間意識は高かった。だが、それほど深いという仲でもなく、
「楽しいからつるんでいる」
という程度で、彼が事故で死んだ時も、別に悲しさというよりも、信号がついたこともあって、
「これを機に、そろそろやめようか?」
ということで、彼らのグループは自然消滅していた。
そもそも、元々仲間だったわけではなく、個人的に、あの場所で単独で走っていた連中が、仲間意識を持ったというだけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
仲間意識がなければ、一緒につるむこともないだろうというのが、彼らの本音で、逆に何か亀裂があれば、あっという間に解散するということも分かっていたことのようだった。それだけ、淡白で冷静な団体だったと言ってもいいだろう。
だから、事故の後も、少しだけズルズルだったが、信号というきっかけで、走らなくなったのだった。
彼らが解散してからどうなったのかは、誰も知る者はいなかった。
暴走バイクがいたということも、時間の経過とともに、知っている人の記憶から薄れていって、あそこで事故があったということ、それから、前になかった信号がここについた李通を知っている人も少なくなってきた。
そもそも、
「信号は最初からあった」
と思っている人が主流で、途中から信号がついたということを知っている人の方が珍しい。
ただ、この事故の問題は、このあたりを開発しようとしている企業や団体からすれば、思ったよりも大きな問題だった。
ショッピングセンターを開設しようと計画を進めていた企業も、この事故がある程度方がつくまで様子を見ていた。
それほど大きな問題になっていないということが分かってから、交渉を再開したことで、実際の開発計画から、半年ほど遅れることになり、ショッピングセンターの完成は、このあたりにほとんど公共施設が出来上がってから、完成に至ったのだ。
住宅は半分近くは出来上がっていて、住民もそろそろ集まり始めたこともあった時期のことだったのだ。
それが、事故から三年が経った今ということであり、夕方も、学校が終わる三時くらいから、帰宅ラッシュの七時半くらいまでは、結構な交通量である。
片道一車線なのもあってか、バスが通る時間は、なかなか前に進まなかったりする。特に麓のあたりの、幹線道路と重なるあたりは、幹線道路に出るまでに、、信号を、数回スルーしなければいけないくらいで、億劫に感じている人も結構いることだろう。
「朝の通勤ラッシュは、しょうがない」
と皆が思っているが、夕方から晩に掛けての混み具合はさすがに閉口してしまった。
それだけ、まだまだ新興住宅で住民が少ないということを分かってのことなのだろうと、皆感じていた。
どちらにしても、事故のあった三年前とは、まったく違う様相を呈してきた、このあたりであった。
三年前と同じ場所であった。まわりはすでに車の数も少ない九時半くらいである。最終バスが最寄りの駅からやってきていて、折り返しで、駅へと向かうのだったが、乗客は二、三人くらいで、最終に乗ってきた人も十人もいなかった。
その中で、一人高校生の女の子がいた、
彼女は、いつも部活で遅くなるのか、最終に乗っていた。他にも高校生はいるが、皆予備校からの帰りで三年生であるが、部活帰りの女の子は、まだ一年生だった。
運転手と仲が良く、いつも一番前に乗って、運転手を見つめていた。運転手は、中年の男性で、運転席の近くにあネームプレートを見ると、鶴岡恒彦と書かれていた。いつも、降りる時に、
「鶴岡さん、今日もありがとう」
と言ってくれる。
それが嬉しくて、いつも最終バスの運転が鶴岡には楽しかった。
朝の通学時間は、通勤ラッシュとも重なってしまい、ほとんど会話はなかった。次から次へと降りるので、それも当然のことであり、ただそれでも、無言だけれども、頭を下げてくれるのは嬉しかった。
友達から、彼女は、
「あいり」
と呼ばれていた。
上の名前を石倉だということは、かなり後になって分かったのだが、それは彼女のカバンを見ればすぐに分かることだった。
それなのに、かなり後になって分かったというのは、鶴岡が結構な恥ずかしがり屋で、彼女と顔を合わせるのはそうでもなかったが、彼女のことをじっと見つめることができなかった。変な勘違いをされるのが嫌で、さりげなく見つめる程度だったのだ。
でも、彼女と距離がかなり縮まったと思ったのは、バレンタインデーで、チョコレートをもらった時だった。
「義理には違いないんだろうけど、俺のようなしがないバスの運転手にまでチョコレートをくれるなんて、何と優しい女の子なんだ」
と感じた。
本当であれば、娘であってもいいくらいの年齢なので、恋愛感情を持ってはいけないと思いながら、自分の中の妄想で、あいりのことを、
「自分の彼女だ」
という思いを抱いていた。
鶴岡は、まだ独身だった。
最後に彼女がいたのは、そう、もうかれこれ、十年近く前になるのか、あの頃は三十代半ばで、
「まだまだこれから」
などと思っていたが、気が付けば年齢もすでに不惑と呼ばれる四十歳を遥かに超えて、四十代も後半に差し掛かることであった。
三十代後半に入ってから、まだ先があると思ったその裏には、
「もう、人生も折り返しに差し掛かった」
と勝手に思ったからだった。
三十五歳で折り返しということになると、
「七十歳までしか生きないのか?」
と言われるが、頭の中では、
「七十歳ではまだまだかな? 八十歳くらいになると、想像がつかなくなる。本当なら八十歳くらいで、苦しまずに死ねれば、それが理想なんだろうけどな」
と思うのだった。
あまり年を取ってまで生きてしまうと、病気の問題や、お金の問題などを考えると、
「生き続けることが、本当に幸せなのか?」
と、考えさせられるのだ。
そして、どうしても不安なのが、
「老後も一人なのかな?」
という思いだった。
この年になるまで一人でいたのなら、もういまさら結婚したいとは思わない。他の人は熟年離婚などと言って、子育てが終わった段階で、お互いに自由に生きることを選択し、お互いの道を歩むために、離婚するというのも結構あると聞いている。
それなのに、いまさら結婚というのも、嫌な気がしていた。
「今は一人が気が楽だ」
と思うからであって、自分の好きなことができればそれでいいとも思うのだった。
鶴岡の趣味は、絵を描くことだった。バスの運転手をしながら、休みの日は、高原などに行って絵を描いていることが結構ある。とはいえ、真夏の暑さや、真冬の厳冬には耐えられず、春や秋に写真を撮っておいて、写真を見ながら書くことも多かった。
ネットの画像などでもいいのだろうが、せめて、自分で撮ってきた画像でなければ、自分で新しいものを作っているという感覚になれないのが嫌だった。
自分が描きたい絵は、基本的に風景画で、海の絵よりも、山や高原の絵が好きである。
「風を絵に描くことはできないが、数が吹いているように描くことはできるだろう」
という思いからか、植物をテーマに描くことが多かった。
作品名:いたちごっこの、モグラ叩き 作家名:森本晃次