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いたちごっこの、モグラ叩き

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 二枚舌という意味で、思いつくのは、イソップ物語に出ていた、
「卑怯なコウモリ」
 という話が二枚舌という発想と結びつくのではないだろうか。
 卑怯なコウモリとは、鳥と獣が戦争をしていたのだが、そこに一匹のコウモリがやってきて、獣に向かっては、
「自分は獣だ」
 といい、鳥に向かっては、
「自分は羽根が生えているから、鳥だ」
 と言って、都合のいい言い方をして逃げ回っているという話である。
 鳥と獣の戦争が終わると、コウモリのことが話題になり、お互いに対して都合のいいことを言って、うまく立ち回っていたことが分かってしまい、誰からも相手にされず、人知れず暗闇の中で生きなければいけなくなったという逸話である。
 つまり、これこそ二枚舌であり、二枚舌を使ってうまく立ち回ろうとしても、お互いにウソがばれてしまうと、最後には一人寂しく暮らさなければいけなくなるという話であった。
 似たような話は人間世界には山ほどあるだろう。歴史を紐解けば、卑怯なコウモリのような生き方をして、うまく世間で生き残った人も結構いたりする。戦国大名の、真田昌幸などその代表例ではないだろうか。
 信州の小大名である真田家は、まわりを、徳川、上杉、北条という大大名に挟まれていて、どこかにつかなければ生き残っていけないところを、主君をその時々で変えて、生き残るというやり方をしてきた。
 それが適わない場合は、自分の城である上田城に立てこもって、相手をおびき寄せる形で籠城戦に持ち込み、少ない兵力で打ち勝つというやり方をしてきた。
 徳川相手に、大きな戦を二度も仕掛けて、そのどちらも奇襲で打ち勝つという離れ業だったのである。
 二重人格において、ジキルとハイドほどの正反対の性格を持ち合わせていて、それぞれが活動している時、片方は眠っているなどという発想は、普通の人間には、考えにくいことであろう。どうしても、小説などの世界の中で、
「サイボーグのようなロボットが、性格を持ったら?」
 というところから始まって、ストーリーにすることで生まれてくる発想なのであろう。
 じゃあ、実際の人間に二重人格というのはないのだろうか?
 そんなことはない。ただ、二重人格というのは、片方が起きている時は片方は寝ているというような発想ではない。もしそうだとすれば、決して、自分のもう一つの性格を計り知ることはできないだろう。
「他人から指摘されるかも知れない」
 という発想があるかも知れないが、
 前述の、
「人間というのは、一つのことだけであれば我慢することができるが、二つ重なってしまうと、そうは我慢できるものではない」
 という発想に、こちら側から結び付いてくることもあるだろう。
 そうなる場合には、発想が限られていて、ある種の決まった方向からしか生まれてこない発想であろう。
 それだけ二重人格という発想は人間誰にでも感じるところではあるが、それを自分で理解するには、かなりの労力がいるのかも知れない。
 奥さんの記憶喪失は、
「何かのきっかけがあれば、簡単に治るものなのかも知れない」
 と、医者から言われたようである。
 しかし、鶴岡の場合は、
「それほど難しいわけではない記憶喪失であるが、根が深いようで、そこに、トラウマのようなものが潜んでいて、自分の意識が記憶を凌駕しようとしない限り、記憶を取り戻すことはできないだろう」
 と言われていた。
 つまり、二人とも何かのショックで記憶を失ったのは間違いないが、奥さんの場合は、心の中にある悩みを解決できれば、記憶も自然と戻ってくるというものであるが、鶴岡の場合は、記憶喪失に関係のあるような悩みが存在するわけではないので、何か突発的なことであろうと医者はいう。そういう場合というのは、まずは原因を突き止めることが必要なのだが、本当にその原因を突き止めていいものかどうか。躊躇するのではないかというのだ。その原因を解消することが本当に鶴岡のためになるのかどうか分からないうえで、安易に記憶を取り戻そうとするのは、
「命を落とす覚悟もないのに、戦場にカメラマンなどで踏み込もうという人間と同じではないか?」
 という。
 場合によって、慈善をひけらかそうとすると、偽善としてしか人の目には映らず、そんなつもりもないのに、考えが甘いと言われてしまうことだってあるだろう。
「危険な目に遭っても、自分の意志で危険なところに赴いたのだから、もし、捕まって捕虜となってしまっても、政府は助けてはくれないという覚悟を持っていなければいけない」
 ということをどれだけ覚悟しているかであろう。
 記憶を失ったのは、そんな覚悟を失ってしまい、その感情が自分への背徳心から、記憶を失わせたのかも知れない。
 鶴岡は、その奥さんのことが気になって、思わず声を掛けてしまった。
「私も同じ記憶喪失なんですよ」
 と、その時は、お互いの記憶喪失がどのようなものか分かっていなかったので、
「記憶喪失」
 という一言で、一絡げにしてしまったが、実際には、一つという発想ではないのだろう。
 それを聞いた奥さんは、一瞬寂しそうな顔をした。自分に何か落ち度でもありそうな表情だったが、そんな表情をされることで、今度は鶴岡の方が、ショックに感じ、
「悪いのは自分ではないか?」
 と感じたのだ。
 お互いに、
「記憶がないということは、ここまで被害妄想にさせることなのだろうか?」
 と感じさせられた。
 そういう意味でお互いに、何も知らないということ、しかも、それが自分のことであれば、これほど不安に感じるということはないと感じる二違いないということであった。
 自分たちにとって記憶喪失は、
「相手のことを思いやり、旧友することで、生きていけるという証を手に入れることであり、記憶を取り戻すことができるとすれば、この相手と一緒にいることだ」
 と言えるのではないだろうか?
 とにかく、記憶喪失においての一番の障害は、孤独感である。
「記憶を取り戻すことで、今新たにできた記憶を、また失うのであれば、過去の記憶など取り戻す必要はない」
 という感情を持つことが、記憶を取り戻すために最低必要な、本人の勇気が、
「記憶というのは、一度失ってしまうと、それを取り戻した場合は、記憶を失ったその瞬間に戻ってしまう」
 という思いが根強いことが記憶を取り戻すための障害になっているのではないかと思われたのだ。
 しかし、過去の記憶には、とても大切な人や大切な事実を残してきているのかも知れない。それが本当の自分であり、記憶を失っている自分が本当の自分ではないと気付けば、おのずと記憶も戻ってくるものだと思えば、記憶を取り戻すための法則めいたものを医者は分かっているのではないだろうか?
 ただ医者はそのことを提唱することはない。ひょっとすると、
「記憶を失う前が本当の自分で、記憶を失った後は本当の自分ではないと、一体誰が決めたんだ?」
 というのが、理由である。
 取り戻すことで、決して幸せになれるとは限らない。むしろ、記憶を失ってまで、何かを守ろうという強い意志がなければ、記憶など、そう簡単に失うはずはないのではないだろうか?
 そういう意味で、鶴岡は最近、