トラウマの正体
「あれは、いつだったかしら?」
と、ゆかりが語り始めた。
「確か、私は中学時代だったと思うんだけど、学校でお金がなくなったことがあったの。一人の生徒のお金だったんだけど、部活での部費が入った封筒だったらしいんだけどね。体育の授業だったので、机の中に、その封筒を入れたままグラウンドに出てしまったのよね。いつもだったら、そんなことをするはずのない子なんだけど、その日は魔が差したとでもいえばいいのか、それで、お金がないと騒ぎ出したのよね」
という話を聞いて、
「誰かが取ったということなの?」
とちひろが聞くと、
「うん、それが担任の先生の耳に入って、クラスで臨時ホームルームを開いたのよね。そこでテレビドラマなんかでよく見るように、先生が、皆に目をつぶらせて、今白状すれば、学校は問題にしないと言って、手を挙げさせたのね」
と言ったところでまたしてもちひろが口を挟んだ。
「誰も手を挙げなかったとか?」
というと、ゆかりが、何も言わずに、頭を左右に振って、違うということを促していた。
ちひろは、どうも先に自分の意見を言ってしまわなければ気が済まないタイプなのか、それとも、相手が姉だということで何か対抗心のようなものを燃やしているのか、気のせいか、目が血走っているかのようにすら見えた。
すると、少ししてから、ゆかりがおもむろに語り始めた。
「そうじゃないの。手を挙げる人はいたの。だけど、その人は何と、本人だったのね」
というではないか。
「えっ? どういうこと? それじゃあ、偽装犯罪ということになるのかしら?」
とちひろがいうと、
「ハッキリしたことは分からないんだけど、誰かが薄目で見ていたらしいんだけど、さすがに先生も一瞬何が起こったのか分からないという感じだったんだけど、すぐに冷静さを取り戻して。皆に目を開けされたあと、その女の子を放課後、教室に残るように言ったのね」
とゆかりがいうと、
「うん、それはそういうことになるだろうね」
と、今度は、泰三が答えた。
ちひろは、今の姉の話を聞いて、急に前のめりな言い方はしなくなった。どちらかというと、その後のいきさつを、自分なりに研究してみようと感じたほどだった。
「それでね。私は思ったんだけど、その先生というのが、その部活の顧問でもあったのよ。彼女としては、部活を辞めたいか何かの意志があったんだけど、部活って、なかなか理由がないと辞めれないもので、いくら先生に相談しても、理由を言わないと辞めさせてくれないものなのね」
とゆかりがいうと、
「確かにそうだね」
と、泰三が相槌を打った。
「で、じゃあ、人には言えない。あるいは、言いにくい理由って何なのだろう? って私は考えたの。その子の気持ちになって見てね。そこで思いついたのが、苛めはなかったのかって思うのよ」
とゆかりがいうと、今度はちひろが口を挟んだ。
「苛めだったら、正直に先生に言えばいいんじゃないの? こんな回りくどいことをする必要はないと思うんだけど?」
というと、
「確かにそうなのよね。でも、それは私たちのように、外から、そして他の部員と同じ目線で見ているからそう思うことで、苛められている本人にとっては、そんな簡単なことではない。要するに、もしここで先生がもう少し頑張ってみろとか言って、退部させられなかったらどうするか? きっと苛めていた連中は、彼女に対して、先生にチクったということで、さらに苛めがエスカレートしてくるでしょうね。だから、、これくらいしないと分かってくれないという思いから、話をややこしくして、自分がこれほど追い詰められているということを示したかったんでしょうね」
「その子は、ちゃんと退部できたの?」
と泰三に言われて。
「ええ、できたわよ。だから、私は退部するためのあの事件だったのではないかと思ったのよ」
と、ゆかりは言った。
「でも、これも結構な綱渡りだと思うのよね。失敗すれば、苛めはなくなることはないということを覚悟しなければいけないはずなのに、よくそこまでできたものね」
とちひろがいうと、
「ええ、そうなの。だから、彼女はきっとある時、開き直ることができたんでしょうね。それが覚悟になって、自分でもよくあんな大それたことができたと思っているのかも知れないわ」
とゆかりは言った。
「覚悟って一体何なのかしら? 開き直りとは違うわよね。開き直りって、効果としては同じなのかも知れないけど、その時だけのことではないかと思うのよ。覚悟をできるようになれば、継続的な感情となって、一皮剥けたと言ってもいいかも知れないわね」
とちひろが言った。
ちひろのセリフは、結構重たいもののように感じられ、泰三にとって、ちひろに対してのイメージが少し変わってきた。
――彼女は、開き直りはできそうに思えるんだけど、覚悟まではできる女のこなんだろうか?
と考えた。
しかし、相手のことなんかよりも、自分はどうなのだろう?
何かに対して今まで覚悟を持って接したことがあっただろうか。
「そうだ、覚悟というのは、ある一点まで行かなければできないものではないはずだ。ことに当たる時すでに最初から持っていておかしくないものではないか、つまりは、自覚がないまま、最初から覚悟を持って臨んでいるのかも知れない。もし、最初から持っていなかった人であっても、一度どこかで覚悟ができるようになると、次から何かをする時に、無意識に覚悟を決めているものなのかも知れない。そうなると、まわりから一皮剥けたと言われるようになるのではないだろうか?」
と、泰三は考えるようになった。
ちひろを見ていると、最初から覚悟が持てるような女の子に思えた。
結婚式の時に一度あっただけだったが、今から思えば、あの時にも同じような感覚を覚えたような気がしていた。
だから、彼女が大学に入学したといってやってきても、確かに大人っぽく感じられるようになったのだが、それを自然に受け入れられている自分がいたのだ。だから、好きだという感情が浮かんでいるのであって、ゆかりといいところばかりが似ているような気がして、
「本当に腹違いなんだろうか?」
と思わせうほど、性格は似通っている。
顔や時折見せる寂し気な表情は、まさしく姉妹という感じだが、二人には共通の何かトラウマのようなものがあったのではないかと思えてならなかった。
だが、年齢差があるので、同じ時に感じたことであっても、かたや大人であり、かたや子供なのだ、感じ方は違っていてしかるべきだ。
だから、二人を、
「腹違いだ」
と言われても、違和感がないのかも知れない。
「覚悟」
という言葉としては、他人事として見れば。陳腐な話なのかも知れない。
しかし、その人の感情、そして、まわりの環境において、同じ一つのラインでも、手前なのか奥なのかは、分かりかねるところがある。ゆかりとちひろ、二人の姉妹には同じ共通の結界があるのかも知れない。それは決して泰三には分からない、年齢差であったり、腹違いということを超越したものを、二人が感じているとすれば、それは家族という感覚がそうさせたのではないだろうか。