トラウマの正体
「お兄さんは、お仕事忙しいの? 確かお姉さんと同じ職場だって聞いていたけど、だったら、研究のお仕事なのかしら? 私は理系が苦手だったので、羨ましいわ」
と言われて、
「うん、少し忙しいかな? でも、結構楽しいものだよ。はじめはどうだなだろう? って思っていたけど、やってみると自分に合っているような気がしてね。やっぱり仕事は自分に合っているのがいいと思うんだ」
と泰三が言うと、
「じゃあ、趣味と実益を兼ねたという感じなのかしら?」
と言われたので、少しだけ考えて、
「それは少し違うよ」
と答えた。
「えっ? 何が違うの?」
「たぶんね、趣味と実益を兼ねた仕事だったら、ひょっとするときついかも知れないね。僕の言ったのは、仕事が自分に合っているということで、趣味がそのまま仕事になったのとでは違うんだよ」
「どうして?」
と、あどけない表情で聴いてきた。
その様子があざとさを感じさせたが、可愛らしいという気持ちが強く、どうやら打ち消していたようだ。
「趣味というのは、仕事で疲れた時の気分転換に行うもので、趣味を仕事にしてしまうと、気分転換すら仕事になってしまって、本末転倒になるんじゃないかって思うんだ。だから、趣味は趣味として置いておいて、気分転換できるような風通しにしておかないと、いつかは参ってしまうと思うんだ」
と答えると、
「なるほど確かにそうよね。気持ちに余裕がなくなったら、仕事自体に時間的な余裕がない時、どうしようもなくなってしまいそうよね。私の先輩で、大学に入学してから書いた小説が新人賞を受賞して、小説家デビューしたんだけど、今まで気分転換で小説を書いていたのに、それが仕事になると、どうやってストレスを解消していいのか分からないって言っていたのを思い出したわ。それだけ気分転換は大切だってことなのよね」
とちひろは言った。
「そうだね、小説家やマンガ家の人っていうと、よくホテルなどに缶詰めにされて、締め切りに追われながら書いているというイメージがあるんだけど、何が辛いって、趣味を仕事にしてしまったことで、気分転換ができないところに持ってきて、何かを一から作るということに対して、気持ちの余裕が不可欠ではないかと思っているので、きっとそのせいで切羽詰まってくるんでしょうね。特に受賞したら、次回作はそれ以上というのを求められる。そうしないと生き残れないからだろうね。だからプレッシャーになるんだと思う。何と言っても、職業として初めて書くことになるんだからね」
と、泰三は持論を展開した。
「うんうん、お兄さん、さすがですね。よく分かっていると思います。私の先輩も似たようなことを言っていました。私も本当は、小説家のような仕事ができればいいなって思っているんだけど、趣味の世界にしておいた方がいいような気がしているんです」
と、ちひろがいうと、
「そうだね、それが一番いいかも知れない。僕も今、ちょうど第一線で研究もしながら、後輩の指導もしなければいけない立場なので忙しいというのがあるんだけど、そのうちに、第一線を後輩に譲って、自分はその上の総括の仕事をするようになると思うんだよね。その時、第一線での自分の立ち位置に満足しているのに、それがなくなった時にどう感じるかというのも少し怖い気がするんだ。これはどの業界であっても、どんな仕事であっても、同じような悩みを皆が抱えているということなんだろうね」
と泰三は言った。
「ゆかり姉さんは、仕事をしている時はどうだったの?」
と、ちひろは今度はゆかりに意見を求めた。
この話は、泰三との間ではしたことがなかった。
泰三には、ちひろが自分と結婚することで、それまでやってきた第一線の研究から離れなければいけないということが、ゆかりにとってどのような複雑な気持ちにさせるかということを危惧させられるからであった。
――俺だったら、ちょっと嫌かも知れないな――
と思った。
何しろ、同じ会社の仲間であり、同僚として仕事をしてきたのだから、お互いに悩みなどは分かっていて、結婚を考えた時から、共有できていたかも知れないとまで思えたほどだった。
そんな仕事を毎日のようにしていると、仕事が佳境に入ってくると、仕事中は、自分以外が見えなくなるというか、まわりの人が、仕事でのパートナー以外には見えなくなる。それが普通であったのだが、仕事が完成し、一段落すると、一気にテンションが落ちてしまう。
ちなみに、仕事が一段落するから完成するわけではなく。仕事が完成するから一段落するわけで、どちらも一緒に来たり、先に一段落する場合は、その一段落は、一つの過程に他ならないのだ。
これは当たり前のことであるが、時々そんな簡単なことすら分からなくなることがある。それだけ、意識が朦朧とするくらい、必死になっているに違いない。
自分だけの世界に集中して入れるので、時間もあっという間に過ぎてしまうので、うまくいっている時はいいのだが、うまくいかなくなると、すべてが悪い方に向かっていく。
そのことも結構経験していることのはずなのに、途中からうまくいっていないことに気づくと、どうしていいのか分からなくなってしまう。解決方法を考えておけばよかったのだろうが、経験した辛いことというのは、それが解消されると、
「あれだけ辛いと思ったはずのことなのに、忘れてしまっているんだ」
と思うほどになり、今度は思い出したくないという衝動に駆られてしまうのであった。
「喉元過ぎれば熱さも忘れる」
ということわざそのものという感じであった。
人間は成長する生き物なのだが、どうしても本能の強い。動物のように、本能自体が強いわけではない。だからこそ悩むのであって、最初から進む道が一つであれば、何も悩むことはない。
しかし、この悩みが人間を最高の知能をもたらす生き物にならしめるのだから、悩みも大切だと言えるだろう。動物のように、遺伝や本能で生きていくわけではないので、
「では悩みのない動物になりたいか?」
と聞かれると、きっと、
「絶対に嫌だ」
と答えるに違いない。
「そういえば、ちひろは、結構喋るようになったわね」
とゆかりに言われて、
「ええ、そうなの、高校時代まではほとんど友達もいなくて、話をすることはなかったの。でも、そのおかげなのか、人の話していることや、うわさ話が結構耳に入ってくるものだということが分かった気がしたわ」
とちひろがいうと、
「耳年魔ということかしらね?」
とゆかりが笑いながらいうと、それを聞いたちひろは顔を引きつらせるようにして、
「ええ、そういうことになるのかしら?」
と、声のトーンが明らかに低くなって答えた。
――ちょっと、危ないかな?
と泰三が感じたのはその時だった。
どうしてこのような聞き方をしたのか、ゆかりのように相手の気を遣うのが上手い人にしては珍しい。やはり姉妹という関係は、肉親としての関係となるので、友達関係とは違ったものなのだろうか。当然親子とも違い、しかも腹違いということもある。必要以上な気の使い方が求められる関係なのかも知れない。
だが、その気遣いは気のせいだったようだ。すぐに二人は落ち着いて話し始めた。