トラウマの正体
確かに腹違いではあるが、それでもこれだけ似ているのである。
――自分が知り合う前のゆかりはこんな感じだったのかな?
という思いを抱くと、何か嫉妬めいたものが浮かんできた。
自分が知らないゆかりを知っている他の男がいるという思いを抱いてしまって。そこから嫉妬が生まれていた。
しかし、目の前にいるちひろは、ひょっとすると、理想の女なのかも知れないとさえ思えてきた。
自分の中で、邪な感情が浮かんでいるとすれば、ちひろをゆかりの自分の知らない時の女だという意識を持ってしまったからだろう。
まあ、あくまでも一目見ただけのことではないか。考えてみれば、泰三は今まで一目惚れをしたということはなかった。
好きになる女性のほとんどは。初めて見た時。むしろ好きになりそうな女性だという感情を一切もっていなかったはずだと思っている。
今のゆかりは。可愛いというよりも綺麗である。知り合った時から、その感情は変わらない。
ただ、綺麗という意識が強いために、普通に可愛いのに、可愛いという感情が欠落するほど、綺麗さが際立っている。それだけに、一緒に歩いていて、まわりに対して、
「どうだ。これは俺の女なんだぞ」
と見せつけたい気分になっていた。
優越感に浸ることで、彼女を利用しているということなのだが、それに対しての背徳感は別になかった。だから、余計にべたべたするのが好きで、そんな気持ちを察してか、ゆかりの方からもすり寄ってくれていたりした。きっとゆかりの方でも、まわりの人に対して、
「どう? 私たち、幸せに見えるでしょう?」
と言っているのではないかと思い、その感情が、背徳感を消しているのであった。
ゆかりは、そういう意味では、どこか女王様のようなところがあった。どこか上流階級のお嬢様という雰囲気を醸し出していて、もしこれがゆかりでなければ、許せないレベルだったかも知れない。
――ちひろにもそんなところがあったら、嫌だな――
と感じた。
すでにこの時、泰三は、自分が意識していないつもりでも、どこか嫌いになりそうな要因があるとすれば、というものがちひろにはないと思っていたようだ。
もし、この時、そんな感情を持っていなかったら、底なし沼に足を取られて、行き着くところまで行きつぃてしまうこともなかったに違いない。
もちろん、後になって気付くことだが、なぜ最初に気づけなかったのか、それが口惜しい。
人間が後悔するのは、いつも同じ感情からだ。だから、後になって、
「何で、いつも同じことを繰り返すんだろう?」
と、失敗するたびに感じることであった。
今回は、失敗しそうな予感が最初からあった。にも拘わらず、警戒心がこの瞬間になくなっていた。
「まるで麻酔薬を打たれたようだ」
と意識が朦朧としてくるのを感じる。
きっと、底なし沼に足を取られた時、最初から底なし沼だと分かっていても、いきなり慌てないのは、身体の感覚がマヒしているからではないだろうか。
身体の感覚がマヒすれば、頭の感覚がマヒ状態になる。頭を動かしているのも、身体があってのことである。中心は頭であるが、身体と切っても切り離せない状況になっていることにいつになったら気付くのか。泰三は、そんなことまで、その時考えていたようだった。
「ちひろちゃん、いらっしゃい」
と、大人という雰囲気を醸し出しているかのように振る舞ったが、彼女にはどう伝わったのだろうヵ?
「お邪魔しています」
と、その笑顔をまったく変えることがなく、口だけが動いていた。
こんなに、表情を変えずに話ができる女性を初めてみた。嫁のゆかりにも感じたことがなかった。しかし、もし今のちひろのような態度をゆかりがすれば、違和感を感じてしまうことは間違いないと思うのだった。
もし、ゆかりが今のちひろのような笑顔を見せれば、
――こんなに笑顔なのに、まるで感情が籠っていないように思えてくる――
と感じることだろう。
それは自分がゆかりのことはほとんど知っているが、ちひろのことはまったく知らないということを感じているからに違いないのだ。
その日、すき焼きにしたのは、最近めっきり寒くなってきたからで、いよいよ鍋類の恋しい季節になってきたからだった。さらに、この間、
「すき焼きなんか、そろそろおいしい時期だよな」
と、泰三が言ったのを覚えていたのだろう。
してやったりという表情を浮かべるゆかりを見ると、
――いつもながらに、分かりやすいタイプの女性だ――
と思うのだった。
一度、結婚してから、ゆかりに、
「俺のどこを好きになってくれたんだい?」
と聞いた時、照れながら、
「あなたはウソのない人だから、分かりやすいの、結婚しても、分かりやすいから助かると思ったのよ」
と、照れながら言ったが、まさしくその通りだと思った。
そして、泰三もそれならばと、迷うことなく、
「今の言葉、そっくりお返ししよう」
というと、ゆかりは何も言わずに、やはり微笑んでいた。
泰三はゆかりがそう答えるであろうことを予測して、わざと聞いたのだ。
「本当に、嫌ねぇ、あなたは、人を茶化すのがお上手」
と言われ、
「それは君だからさ。こんなあざといことを他の人にはしないさ。だって、やったって分かってくれなければ、これほど滑ることもないだろう?」
というと、
「それもそうね。私だから分かるのかしら? でも、あなたが分かりやすいというのは、他の人も感じていることかも知れないので、仕事上なんかでは、気を付けた方がいいかも知れないわね」
と、半分、本気でそう言っていた。
しかし、泰三は、
――ブーメランが返ってきた――
というくらいにしか捉えておらず、
――ゆかりは俺が分かりやすいと言っているけど、ゆかりにだけに決まっているさ――
とタカをくくっているようだった。
すき焼きを囲んで、三人で鍋をつつく。ビールを飲みながらの談笑は、久しぶりで楽しかった。
新婚当時、同僚が、ふざけて、
「おい、下北。お前の新婚家庭にお邪魔したいものだな」
というので、一度だけ招待したことがあった。
その同僚とも、ゆかりは仲が良かったので、別に抵抗なく家に招いた。
あの時は確か鍋だったような気がする。日本酒を飲みながらだったので、結構楽しかった。
しかし、その一度きりで、他の人も連れてくることはなかった。そに同僚も、最初から一度だけと思っていたのだろう、
彼は独身で、新婚夫婦に充てられるのも嫌だっただろうし、あまり何度も押しかけるような野暮なこともしたくなかったのだろう。
人の新婚生活のことなんかよりも、自分がいい相手を見つけることが先決、遊びに来たいと言ったのは、新婚になった時の自分をイメージしたかったからなのかも知れない。
そういえば、泰三も、ゆかりと婚約期間中、先輩の家庭にお邪魔したことがあった。
あの時は数人での訪問だったので、泰三だけが目的が違っていたようだ。
――俺はあの時、これから迎えるであろう、ゆかりとの新婚生活を想像して、頭に焼き付けておきたいという思いがあった――
と、振り返っていた。