トラウマの正体
そんな三すくみを、家庭で感じるというのは、一種の悲劇なのだろうが、案外、大なり小なり、どこの家庭にも見られることではないだろうか。
あるいは、実際に二匹のサソリの様相を呈しているのに、それを認めたくないという思いから、一家の長たる父親による、高圧的な態度に対して、まわりの人間は甘んじて受けているというのが、本当のところであろう。
しかし、甘んじて受ける方も、
「自分には責任がない」
という意味で気は楽なはずだ。
責任を一身に背負っているよりもいいかも知れないが、我慢というのも限界がある。いきなり、奥さんがハッキリとした理由もなく、離婚を言い出すという時の理由には、こういう状況が背景にあるのかも知れない。
奥さん自身もハッキリと口に出して言えるだけの理由を把握していないことから、
「理由もなく」
という離婚話が存在し、、下手をすれば、主流になっているのかも知れない。
つまり、三すくみの状態であっても、その一角が、離脱したり、いなくなってしまうと、それぞれのバランスが崩れて、そのバランスを保とうとするなら、
「二匹のサソリ」
という、抑止力に持っていくしかないということであろう。
そういう意味では、どちらが強い弱いではなく、相手の力に自分が合わせることができるかが問題だ。
いくら自分の方が強いといっても、一気にやっつけることができなければ、自分もろともやられてしまうということになる。ただ、そうなってくると問題は、
「二匹のサソリに、限界はないのか?」
ということであり。
時間的な限界なのか、忍耐的な、あるいは精神的な限界なのか、そのどちらにしても、限界があってしまっては、どちらかが動くことになる。
そうなると相手も動くことになり、その末路は、
「相打ち」
にしかならないはずである。
そのことを分かっているのかいないのか、限界を感じるまでは、動かないようにするのが、本能なのだろうと、思えたのだった。
それは、
「好きなものを続けて食べるくせがある」
というのと似ているかも知れない。
「好きなものであれば、何日でも続けて食べることができる」
という人も結構いるだろう。
泰三も実際にそういうところがあった。高校時代に、学校の食堂で、かつランチのメニューを半年間続けたことがあった。
まったく飽きることがなかったのだが、一度、
「飽きたかな?」
と感じると、もう後は見るのも嫌と思えるまでになるのはあっという間のことだった。
「あれから十年以上も経っているのに、もし見たら、吐き気を催すくらいになっているかも知れない」
と感じているほどだ。
これも、明らかな限界が存在しているわけで、それまで絶対に飽きることなんかないんだという思いが、ここまで見るのも嫌というほどになるとは思ってもいないことだったのだ。
そういう意味で、
「二匹のサソリに限界などあるのだろうか?」
と考える。
本当の瓶の中のサソリであれば、いいのだが、実際の核抑止という二匹のサソリに限界が生じるとすれば、その先に待っているものは、これ以外の想像はできないというくらいに確実な、
「世界全面核戦争」
であり、その先は、
「あっという間の、人類滅亡」
だと言えるだろう。
限界の恐ろしさがどれほどのものなのか、誰に分かるというものなのだろう。
つまりは、その真理は、起こってみなければ分からないことであり、起こってしまうと、それを検証する人がいなくなるということだ。
死なないと証明できないことは、本末転倒なことであり、それだけ、不毛な発想だということであろう。結末が笑い話でなければ、地獄しか残されていないということではないだろうか。
そんな二匹のサソリの話を思い出したのは、やはり歴史を好きだったからであり、二匹のサソリの話を彷彿させる、歴史上の出来事を想像させるのも結構あるのではないだろうか。
そのうちの一つが、先ほど、
「判官びいき」
の話の中で出てきた、
「頼朝と、後白河法皇の話」
と似ているところがあるのではないかと思っていた。
この時代の、いわゆる「源平合戦の時代」と呼ばれていた頃には、結構今の格言になっているような逸話もあったりする。それこそ、琵琶法師が語っていた平家物語の主張であるところの、
「諸行無常」
に値することなのかも知れない。
平家の滅亡は、当主であった清盛が、平治の乱で破った源氏の嫡男と、そのの二人、すなわち、頼朝と義経の命を助けたことが、一番の問題だった。
二人の父親の源義朝は討たれたが、その側室だった常盤御前が、自分の子供の命乞いを清盛にして、自分が愛人になる代わりに、子供たちを助けるということで、頼朝は、伊豆の蛭が小島に、そして義経は鞍馬に流されたのだ。
二人が成長し、以仁王と、源頼政が平家追討令を出したことで、頼朝が挙兵。そしていずれは、義経の手によって、壇ノ浦で滅亡の憂き目にあうのだった。
しかし、後白河法皇が、義経を自分の手の内に抱え込んだことで、頼朝との間に不和を生じさせ、義経を滅ぼすということをやってのけた。
頼朝は、そんな法皇の魂胆を見抜いていたことで、決して上洛しようとせず、関東で足bを固めていた。
この感覚は、秀吉と家康の関係にも言えるのであって、いくら天下人になった秀吉に対してであっても、最初の頃は上洛しようとしなかった家康に対して、あの手この手と譲歩を見せて、家康をやっと屈服させた。何と言っても、家族思いの秀吉が、母親や自分の妹を人質に出したくらいである。ただ、その背景には、家康は自分の長男と武田信玄が手を結んで、信長に反旗を翻すというウワサを聞きつけて、(築山殿という女性による密告)であったが、それを真に受けた信長が、家康に、
「長男の切腹を言い渡した」
ということで、家康は泣く泣く長男を切腹させた経緯を持っていることで、家族に対しての思い入れは、他の人と違っていたということを、秀吉は分かっていて、巧みに利用したのかも知れない。
家康とすれば、その時、信長と話し合いをしていた、四天王の一人である酒井忠次に対し、後年、
「お前でも、息子に対しての思い入れはあるんだな」
と言ったという。
それは酒井忠次が、信長を説得できんかったという恨みがあってのことであるが、まさにその時の心境を何十年も経ってから、ボソッというくらいの男なのだから、執念深さというのも、家康は、人一倍だったのだろう。
そして、この時の清盛が助けたことで、最後は自分の首を絞めるというブーメランが帰ってきたことになるのを証明する出来事として、清盛の最後を見れば分かるのではないだろうか。
今わの際で、
「わしが死んだら、葬儀はいらぬ、その代わり、わしの墓前に、頼朝の首を捧げよ」
というのが、最後の言葉だったという。
よほど、清盛はその時のことを後悔しているのだろう。
それを知っているのちの歴史の偉人たちは、決して敵の家族を残したりはしない。一家の滅亡を意図している。その証拠が、家康が起こした、
「大阪冬・夏の陣」
ではないだろうか。
自分の孫娘の婿である、秀頼を滅ぼす。つまりは、豊臣家の完膚なきまでの滅亡を画策したくらいだからだ。