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トラウマの正体

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「ぎこちなくて息苦しいと感じる時、彼の親のように、賑やかにすればいいという考えにどうしてうちの家族は思わないんだろうか?」
 と、それぞれに、全体的に見ることと、彼の家族の目から、うちの家族に目を移して見るような感覚で見ることとの両面から感じていたのだった。
 ただ、泰三の場合は、家族三人だけだったので、それぞれに好きなことをやっていた印象がある。狭い家ではあったが、自分の部屋もあって、引き込もることもできたわけで、中学生の頃から、家では一人でいることが多かった。
 小学生までの間も、家族団らんというわけではなく、ただ、そうしなければいけないという義務感のようなものから、家族で食事をすることが当たり前になっていた。
 その間に会話があるわけでもなく、息苦しくはあったが、テレビがついていたことで、気を散らせることはできた。
 さすがに、昭和後半の家族で食事をする時、テレビをつけると怒られたというようなことはなかった。
 家族の長である父親も、さすがに殺風景なのは分かっていたのだろうが、テレビがついていたとしても、家族がぎこちないことに変わりはなかった。
「テレビはついているだけで、音があるというだけのことであった」
 と言っていいだろう。
 次第にそんな生活に慣れてくると、却ってテレビの音が、今度は煩わしく感じられた。
 しかし、誰もテレビを消そうとはしなかった。いきなりの静寂を皆怖がっていたのではないだろうか?
――誰が誰を怖がっているんだろう?
 と思った。
 泰三は、父親と母親に感じている思いが一緒のわけではない。確かにどちらかに恐怖心を抱いていて、どちらかに別の感情があるのは分かっていたが、恐怖心があるのは父親に対してであって、母親にはどのような感情があるのか、すぐには分からなかったようだった。
 そして、母親も父親も、二人とも、泰三と同じような感覚だったのではないかと思っていた。そして、そのうちに感じた結論として、
――それぞれ、どちらかに対して恐怖心を抱いているんだけど、その恐怖心は、三すくみのようになっているのではないか?
 という思いだった。
 つまり、三すくみのたとえとしてよくあるのが、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
 の発想である。
「ヘビは、カエルを食べるが、ナメクジには溶かされる。カエルはナメクジには強いが、ヘビには飲まれる。ナメクジはヘビを溶かすが、カエルには弱い」
 というそれぞれに、力の均衡があって、
「この三つが睨み合っていれば、身動きすることはできない」
 というものでもあった。
 自分たちが家族の中で、息苦しさを感じたのは、この三すくみの状態のように、まったく動けないことで、身体から変な汗が出てくるような気がしたからだ。
「まるで、ガマの油のようだな」
 と感じていたのではないだろうか。
 まったく身動きができない状態を、どうすることもできないことで、次第に引きこもって行ったと言ってもいいのではないだろうか。
 これは、自分たち家族だけではなく。他の引きこもりのいる家族にはあり得ることなのかも知れない。
 三人のうちの一人が引きこもると、三すくみの均衡が破れて、両親の間でぎこちあくなってくる。
 子供の教育に対して、何もできていなかったくせに、その責任を相手に押し付けようとする、。それまでは保てていた近郊だったのだが、一人が抜けると力関係のバランスも崩れてしまって、本当であれば、相手に弱いはずの自分だということが分かっていたはずなのに、バランスが崩れたことで、お互いに相手に対して強いという思いと弱いという思いが同居して、お互いに敵対しながら、それ以上のことができないという、変則的な力の均衡になってしまったようだ、。
「二匹のサソリのようではないか」
 という言葉を思い出した。
 ここでいう二匹のサソリというのは、
「瓶の中に入っている二匹のサソリは、お互いに相手を確実に殺傷できるが、逆に自分も相手に殺される覚悟をしておかなければいけない」
 というものであった。
 つまり、お互いに、どちらからも仕掛けることができないものであり、この状態は、
「核兵器の抑止力に似ている」
 と言えるであろう。
 第二次世界大戦終了の時点で、アメリカは原爆という核兵器を保持した。そして世界は、
「アメリカとソ連」
 という、政策主義の違う二大超大国による睨み合いの様相を呈していた。
 お互いに、民主主義、社会主義という主義を主張し、社会主義、共産主義というイデオロギーを世界に広めようと画策するソ連の動向を、民主主義の代表であるアメリカが、
「世界に警察」
 を自認し、ソ連の世界共産化計画に危惧を示し、民主主義の世界を死守しようとして、その代表として、代理戦争と言われた、朝鮮戦争、ベトナム戦争を経験することになる。
 朝鮮戦争から、ベトナム戦争前に、中米に位置するアメリカの目と鼻の先にあるキューバによる社会主義革命が起こったことから端を発した、いわゆる、
「キューバ危機」
 というのが起こったことは、歴史上の常識と言ってもいいだろう。
 今から、約六十年くらい前のことである。
 社会主義革命に成功したフィデロカストロをアメリカ大統領の、j・F・ケネディ大統領が警戒したことから、キューバは身の危険を感じ、ソ連のニキータフルシチョフに救援を求めた。
 そこで、ソ連はキューバ国内に、核ミサイルの発射基地を作ることにして、極秘に計画を遂行していたが、アメリカの偵察機が発見したことで、アメリカが慌てた。
 ソ連とキューバにミサイル基地建設をやめてもらうような外交交渉に入ったが。ソ連は、ヨーロッパの北大西洋条約機構の配備したソ連に向かってのミサイルの撤去を要求してきた。
 それぞれの首脳によるギリギリの外交交渉であったが、これが世界に発信されると、一気に、
「全面核戦争の危機」
 ということで、大騒動へとなってしまった。
 最終的には、ギリギリのところで、核兵器の輸出をソ連が断念することになり、全面核戦争の危機は去ったのだが、ソ連をアメリカの仲は、それ以降どんどん離れていくことになった。
 それこそ、人類がやっと、核開発における軍拡競争というものが、いかに不毛で地獄と裏返しであることを知ることになった。
 それまでは、
「持っているだけで使わなくても、平和が守れる」
 という核兵器の抑止力が主流であったが、一歩間違えると、全面核戦争になり、そうなると、一瞬にして、世界が破滅することになるのは目に見えていただろう。
 それこそ、
「二匹のサソリ」
 の発想である。
 瓶の中に入っているのは、核保有国だけではない。格を持っていない。つまり毒のないサソリであったり、それ以外の弱小動物が入っているかも知れないが、その瓶の中が世界なのである。均衡が崩れると、平和などというのは、まるで絵に描いた餅のようなものであり、ちょっとした手違いで、瓶の中には誰も生存している動物がいなくなるという地獄絵図になることだろう。
 それが、
「二匹のサソリ」
 の正体であり、それが三つになると、
「三すくみ」
 になるのである。
作品名:トラウマの正体 作家名:森本晃次