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「路傍の石」なる殺人マシン

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 そんな政府をよそ眼に、ウイルスは人間ではないので、忖度はしない。したがって、国民がいうことをきかないのをいいことに、猛威を振るうのだ。
 だが、そんなウイルスも、何度も変異して勢力を強めたが、最後は何があったのか、まったく分からずに急に死滅していった。
「一体、あの五年間は何だったんだ?」
 と国民は呆気に取られ、拍子抜けしていた。
 しかし、その間に死者も相当数出たのも事実で、簡単に喜んでいられる雰囲気であるはずもない。
 しかし、今は鳴りを潜めているウイルスであるが、実はまったくなくなってしまったわけではなかった。
 こっそりと隠れていて、二年後には新たなウイルスとして覚醒するのを待っているのだ。
 そう、まるでさなぎがふ化するのを待っているかのようである。
 元々は大陸から、全世界に流行ったもので、
「細菌兵器ではないか?」
 とも言われたが、実際には何ともいえない。
 ただ、あのウイルスがきっかけになって、どんどん変異していき、変異を繰り返しながら強くなっていくので、これほど厄介なものはなかった。
「人間が自然環境を崩していくので、自然がそれに対して起こした、その名の通りの、自然現象でしかない」
 という専門家がいたが、その意見はリアリティがあった。
 どこかの間抜けな首相が、
「安心安全」
 を訴えるのとでは、信憑性の次元が違った。
 そんな時代を刑事として切り抜けてくるのは、結構大変だった。世間では、いらぬ衝突が起こる。その証拠が、政府の曖昧な対応による混乱からのいざこざ。さらには、政府が肝心なことを黙っているために生じる政治不満だったり、ストレスだったりが、衝突に繋がるのだ。
 政府がすべて悪いというわけではないが、少なくとも、非常事態くらいはしっかりしてもらいたいものだ。
「安心安全なんて、誰が保証するんだ?」
 と一言言われれば、何もいえなくなるくせに、何もいわずに、これだけを繰り返す。
 まるで子供の喧嘩のようではないか。
 さらには、世間を締め付けたことでの、商売がうまくいかずに自殺する人が多く、警察はひっぱりだこだった。さすがに医療従事者とまではいかないまでも、警察も本当に大変だった。不眠不休などということもあるくらいで、中にはノイローゼになってしまう人もいたのではないだろうか。
 それでも五年という月日を、よく通り超えたものである。
さらに何がひどかったかと言って、治安がまったく守られていなかった。
 ロックダウンのような大日本帝国時代に存在した戒厳令のような措置が、獲られるわけでもない。
 ちなみに、かつての大日本帝国憲法下における戒厳令の発出は三階だった。
 明治、大正、昭和と、すべての時代に一度ずつ存在するものだった。
 一度目は明治時代で、日露戦争終結時、ポーツマス条約にて領土拡充や、権益の保証は行えたが、肝心n戦争賠償金を得ることができなかった。それに対しての民衆の怒りが爆発し、「日比谷焼き討ち」という事件を引き起こした時に、発せられたものだった。
 そもそも、日本は日清戦争の時に、清国から拡充した遼東半島を、ロシア。フランス、ドイツによる三国干渉で返還を余儀なくされたという痛い経験があった。もっともそのために、二億テールという賠償金を得て、八幡官営製鉄所を作ることができたのであるが、その時とは逆だった。
 日清戦争の時とはケタが違う戦費、そして犠牲者を考えると、焼き討ちという行動も同情の余地はあるが、さすがに帝都の危機ということでの戒厳令であった。
 その次は大正時代。
 戒厳令を発出する時の定義に、
「クーデターなどによる戦闘状態や、大規模災害によって、都市の治安が守られない時は、戒厳司令部を作って、市民の権利に制限を掛けることができる」
 というものであった。
 今の日本国憲法には、
「基本的人権の尊重」
 という三大減速の一つがあるので、個人の人権に制限を加えることは、憲法違反となることから、ロックダウンのようなことはできないのだ。
 そのせいで、伝染病が拡大したのであるが……。
 大正時代の戒厳令は、まさに先ほどの定義の二つ目にる、未曽有の大災害であった。
「関東大震災」
 である。
 この地震は、帝都だけではなく、横浜、千葉、さらには静岡にまで被害が拡大していた。しかも、震源地は、確か伊豆沖ではなかったか。それが帝都を一晩で焼け野原にするのだから、相当なものだっただろう。
 その後も数年間は、焼けるような臭いや埃が充満し、マスクをしていなければいけない時代になった。奇しくも、今から約百年前のことである。
 災害が起こると、デマが飛び交うということもあり、横浜や帝都で、
「地震は朝鮮人が起こした」
 というデマが流れ、彼らが惨殺されるということもあり、戒厳令が敷かれるのも当然のことであったのだろう。
 さて、もう一度は、昭和のことである。
 先ほどの定義の。今度は前半部分、つまり、
「クーデターなどによる戦闘状態」
 が発生したのである。
 実際にはどういう事件だったのかということを知らない人も、
「二・二六」
 と言えば、名前くらいは知っているだろう。
 この事件は、青年将校による、国を憂いて起こした犯行だという話もあるし、それもウソではないだろうが、、一番の問題は、
「陸軍における派閥抗争」
 が原因だったのだ。
 東北の飢饉や、昭和恐慌なども背景にあったが、陸軍の皇道派と呼ばれる派閥が、統制派を排除するために起こしたことで、数人の政府高官を襲い、殺害した。
 そして、警視庁などを占拠し、天皇への直訴を要求したのだ。
 しかし、肝心の天皇には、派閥争いということが分かっていて、しかも殺害されたのは、自分の政治顧問ともいうべき側近だったことで、天皇の怒りは尋常ではなかったという。
 戒厳令が敷かれた中で、天皇は決起軍を反乱軍と認定し、彼らを、
「私自ら軍を率いて鎮圧する」
 とまで言われたのだから、相当なものだったのだろう。
 その話が決起軍に伝わったことで、彼らは観念し、隊を原隊に返し、責任者は、投降するか、自決するかのどちらかだった。ちなみに投降した連中は、非公開で弁護人なしという裁判で、全員が死刑となったのである。
 日本における戒厳令はこの三つであったが、今は、
「日本は戦争ができないので、有事は存在しない」
 という見解から、最初から憲法に戒厳令の項目はないのだ。
 だいぶ、話は脇道に逸れてしまったが、山崎が五年前にKエンタープライズと接点があったというのは、この事件に果たして何か影響があるのだろうか? 少なくとも、捜査本部では興味を示している人がいるようで、山崎のことを捜査しなければいけない状況になっているのは間違いないようだ。
 そういう意味で、隅田が持ってきた情報というのも、最初こそ、
「こんなおただの偶然だよな」
 と思っていたが、
「犯罪事件というのは、どこにどんな事実が隠されているか分からない。まったく関係のないことであっても、偶然というのは、その事実を暴き出す材料になることがあるんだ。すべてを信じるのは危険だが、少なくとも軽視してはいけないということだというのを、肝に銘じておくといいぞ」