「路傍の石」なる殺人マシン
しかも、それらは時系列で続いていくので、それらは、
「まるでらせん階段のようだ」
と言ってもいいだろう。
らせん階段というと、いわゆるスパイラルである。これがパチンコのように、どんどんと悪い方に落ち込んで行ってしまっているのであれば、それを、
「負のスパイラル」
と言っていいのではないだろうか。
パチンコにしても、酒タバコにしても、それぞれにスパイラルがある。そして、この負のスパイラルという言葉を思い起こすと考えられるもう一つの感情が、
「躁うつ病」
であった。
警察官として働いている以上、他の人は誰も知らないことであるが、隅田刑事は昔、躁鬱症を患っていたことがあった。
あれは、高校時代くらいだっただろうか。隅田刑事には、
「勧善懲悪」
という意識があり、
「悪に対しては、いかなる忖度も使ってはいけない」
という感覚だったのだ。
勧善懲悪というのは、テレビの特撮ヒーローものであったり、時代劇における、
「庶民が、悪代官をやっつける」
あるいは、
「将軍様や、お奉行様が、悪代官を懲らしめる」
というものである。
ヒーロー特撮ものというと、少年から中高生くらいまでというのが主流で。逆に時代劇というと、老人が主流だと思われがちだが、最近ではそうでもないようだ。
子供の頃から特撮を見てきた少年が、そのまま大人になっても、特撮を見続けるということも普通によくある。
「特撮を見始めて、もう四十年くらいになる」
という人もいるくらいで、特撮ヒーローものというのが流行り始めたのも、その頃が最初だったようだ。
それだけ、
「俺は、特撮を最初から見続けているパイオニアだ」
という意識を持っている人が多いということだろう。
それを言い始めれば、アニメでも同じことで、逆に時代劇だって、子供の頃に、おじいさん、おばあさんと同じ部屋に住んでいれば、嫌でも時代劇を見せられた記憶もあるだろう。
そして、いつの間に蚊、主役の老人の横に控えている家老が、印籠を手にして、
「ひかえおろう」
などというセリフを聞いて、いつの間にかドキドキしているのを感じる。
毎回同じパターンなので、
「よく飽きないな」
と思うのだろうが、いつもの時間に同じシチュエーション。その方が気楽になれるというのは不思議なものであった。
それが勧善懲悪というものだ。
子供の頃から見ていたものや、それについて感じたことは、そう簡単に忘れることはできないものだろう。時代劇と同じで、パチンコのギャンブル性は、当たる時の演出に、勧善懲悪を思わせるものを入れていたりする。
最初から、
「外れる方の確立の方が圧倒的に高い」
という意識があるからこそ、当たった時の喜びはひとしおなのだ。
しかも、ギャンブルをする人で、本当のギャンブラーではない人は、一度外れたら、他に移るということはしない。
それは、パチンコというものが、
「完全確率性である」
ということを分かっているからだ。
完全確率というのは、例えば、五百分の一の確率で当たると言われるものがあるとすれば、普通であれば、一度外れれば、次は四九九分の一になるというのだろうが、パチンコの場合は、次にまた五百分の一に戻るのだ。
これは、おみくじを引いた時、一度引いた竹を、おみくじ箱の中にもう一度戻すというものと考えれば分かるのではないだろうか。
だから、必ず五百回以内で当たるというものではなく、一回転で当たる場合もあれば、二千回転やっても当たらない場合があるということだ。
あくまでも、パチンコというのもゲームなのだから、シナリオができていて、そのシナリオがどう動けば大当たりに結び付くかということが問題なのである。
だから、
「大当たり確率」
と言われるのであって、要するに当たる確率を平均でどれくらいにするかというプログラムを組んでいるだけなので、ひょっとすると、十回以内に当たるという高確率が何度も続くかも知れない。
そうすると、平均でいくならば、そのゾーンを抜けてしまうと、理屈でいえば、当たる確率がその後、どんどん膨れ上がっていくということになるのであろう。
そう考えると、パチンコこそ、本当のギャンブルと言ってもいいかも知れない。
何と言っても人間がプログラミングした機械によって支配されるものなのだから、カジノにあるようなゲームに比べれば、予想も立てやすいというものだ。
それだけ、その一台の特性を調査しておいて、もちろん、機種の情報が頭の中に入っていることが大前提であるが、理論的な計算を立てて、数字を当て嵌めれば、ギャンブルであっても、予想はつきやすいというものだ。
だから、昔から、「パチプロ」などという人がいて、彼らがパチンコを商売にできたのだろう。
昔の釘の調整のことからパチプロはいたが、それこそ完全にプロのわざである。いわゆる、「スリ」を完璧にやるために訓練した人と同じようなものだ。
だから、釘ではなく、ロムの問題になってからのパチプロは、あくまでもデータに基づく根拠でなければいけないのだった。
だから、忰田はギャンブルと言っても、パチンコ以外はしなかった。
「他のギャンブルとはまったく違うものだ」
という感覚があったからだ。
他のギャンブルにはないゲーム性がまず一つで、競馬、競輪のように、人が出走するものを、ヤマカンのようなものでレースを予想しているもの。あるいは、麻雀のように、自分の実力が伴わないものなどといろいろあるが、明らかに違っている。
ちなみに、競馬、競輪などの公営ギャンブルのほとんどは、データに基づいて予想する人がいるので、ある意味、パチンコとよく似ているのかも知れない。
しかし、そこまで競馬競輪を好きではない隅田にとって、やはり、
「他のギャンブルとはまったく違う」
と考えていた。
それは、やはり、ゲーム性を重視して考えるからであろう。パチンコの神様が、
「ゲーム性を重んじる感情で金銭をかけると、金銭に対する感覚がマヒしてしまって、湯水のようにお金を使うことになってしまう」
ということにしてしまうのではないかと考えたのだ。
最初はパチンコばかりをしていた隅田だったが、そのうちにスロットの方に変わっていった。
パチンコと違い、リールを止めて、バーであったり、「7」という数字を揃えなければいけないという意味で、パチンコよりも、
「自分でやっている感」
があるからというものだった。
スロットというのは、パチンコと同じだと思っていたがいろいろと細かいところで違っている。
まずは、設定というのがあるということだ。
パチンコの場合は、最近では設定付きパチンコというのがあるが、基本的には、設定というものはなかった。
では設定というものが何であるかということであるが、
「設定というのは、一か六まであって、一が一番当たりにくい設定であり、数字が大きくなるにつれて、当たる確率が上がっていく」
というのが考え方だが、厳密にいえば、
作品名:「路傍の石」なる殺人マシン 作家名:森本晃次