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精神的な自慰行為

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「それだけに、自分の感性が重要になるんでしょうね。でも弘子さんのように、プロ意識がない方が、自由に書けるじゃないかな?」
 と言った。
 それを聞いた弘子は苦笑いをして、
「褒め言葉ではないところが、的を得ているところなのかも知れませんね。確かにそうなんだけど、まだこれだけでは物足りない気がするんですy」
 というと、高杉は、
「僕なんかの場合は、絵を描きながらたまに疑問に感じることがあるんだけね」
 と言って一瞬黙った。
「というのは?」
「絵というのは、目の前にあるものを忠実に描くのが正しいと皆思っているのかも知れないんだけど、独特の感性を持った絵描きというのは、目の前にあるものを忠実に描くというよりも、大胆な省略をするという人がいるんですよ。絵だって、事実が真実だと言い切れないのかも知れないからね」
「事実と真実?」
 と弘子が反復した。
「なるほど、そうなのかも知れないわ」
 と、続けて言ったのだ。

               法改正による準備

「真実と事実の違いというと、見た目でリアルなことが事実であり、正しいことや本当のことが真実だという感覚は、本当にそれでいいのかな?」
 と、高杉は言った。
「そうね。確かに事実の上に真実は成り立っているというわけではないしね。事実は小説よりも奇なりということわざがあるくらい、事実であっても、容認できないこともあるでしょうし、真実と言っても、事実に基づいているというわけでもないことも多いしね」
 と弘子がいうのを聞いて、
「そうだよ。ウソから出た誠という言葉があるように。誠が真実だとすると、事実ではないことからの真実もありえるだろうしね」
 という高杉の表現に対して、
「そもそも、事実と真実というのを、同じ次元で見るからややこしいのであって、実は次元が違うだけで、同じ位置にあるのが、理解できないことではないのではないかと思うのは私の勝手な理屈なのかしら?」
 というのを聞いて、弘子という女性がさすがに文章を作ることができるだけの才覚を持ち合わせているのだと高杉は感じた。
 高杉は絵画、弘子は小説執筆と、それぞれに違った趣味を持っているが、芸術という意味では同じである。だが、見た目はまったく違っているのを考えると、今しがた考えた、
「事実と真実:
 というものを、違う次元での発想に置き換えたとすれば、事実と真実を、絵画と小説のように見てみると、実は別々の次元に存在してはいるが、実際には同じ場所にあるものだと考えることもできるのではないだろうか。
 絵画というのは、三次元から見ると二次元であり、三次元の立体を平面の二次元として一枚の紙に収めたと考えると、これこそ、違う次元に存在しているだけだと言えるだろう。そして、絵を描くというのは、見た目を写してありのままを描けば、まったく同じ位置にあると言えるが、大胆に省略するところまではないとしても、少しでも違って描いてしまえば、同じ場所に落ち着くことはなく、別の位置として、決して交わることのないものになるだろう。
 だから、いくら同じものを描こうとしても、絶対に同じにはならない、そのように描くように仕向けているとすれば、
「二次元と三次元が交わるということはありえない」
 という学説を証明していることになるであろう。
 そういう意味で、二次元と三次元を別のものだと感じたいということで、
「絵というものは、大胆に省略したい」
 という発想になるのだということを、高杉は自分で証明しているようなものだった。
「そのことを、弘子は分かっているのかも知れない」
 と感じた。
 弘子は絵画ではなく小説であるが、小説は絵のように、形の見えるものではない。真実と事実のどちらからというと、真実の方だろう。
 形にして表せる分だけ、絵画は事実に近いものであり、それぞれが、まったく違う次元に存在しているということは、理屈としてあるのかも知れないと、高杉は感じた。
 それだけ、人間にとっての現実は、自分たちが作り出す架空の世界とは、一線を画していて、
「侵すことのできない神聖な領域だ」
 と言えるのではないだろうか。
 事実と真実をここで話をしたというのは、本当にただの偶然であろうか?
 小説と絵画というそれぞれの領域を相手に犯されたくないという気持ちがお互いにあって、その領域の中間にいるのが、最初は事実と現実だと思っていたが、正三角形の頂点をそれぞれが描いていて、平等な位置に成り立つことで、それぞれの次元もお互いに見えないように、干渉しあわないようになっているのではないかと思うのだ。
 それを、高杉と弘子は、勝手な想像ではあるが考えている。どこまでが真実なのか、事実なのか分からないが、平衡に気づいたということは、何かの力が、二人にそれを気付かせるために働いたということではないか。
 高杉は、自分にとてもそんな力があるとは思えないし、弘子にも同じだろう。
「一足す一が三にも四にもなったり、人間の頭が数パーセントしか使われておらず、それ以外の部分が超能力と言われる部分で、誰もが超能力を使うことができる環境にいるという理屈から、二人が偶然に出会ったことで、果てしない力が宿ったのではないかと考えるのは、あまりにも強引であろう。
 そういう意味での偶然の出会いというと、これはもちろん、高杉の知るところではなかったが、「さくら」と弘子の出会いであった。
 今回の法改正の目玉である、
「セックス同意書制度」
 というのは、同性愛には関係していない。
 まだ、実際に施行されていない法律であるが、この法律の施行までにはいろいろシステム的な開発が急務であうが、その開発を行うための、設計が大切である。
 夫婦間であれば問題はないが、婚約者はどうなる? そのカードを渡すことのできる男女をどの程度までの関係から許すか? という関係性の問題。
 さらには、自宅、それ以外のラブホテル、それ以外の場所をどうするか? という場所の問題。それが決まって初めて、法律と平行する施行マニュアルの作成、そして、それび伴ったカードを使う際の、認識できる機械の開発などを、法改正が決まってからになるのだ。
 世の中というのは、一つのことを行うには、そのまわりをいかに固めるかということで、時間のかかることはたくさんある。その中でも法改正が伴うと、必ず出てくるのが、法改正に伴う「法の抜け道」の開発であった。
 それが詐欺事件であったりするのだが、今回の、
「セックス同意書制度」
 というのは、カードを持っていて、そのカードによる認証というのが、肝であった。
 認証するということは、そのカードの中には、当然のことながら、個人情報が入っているということである。
 この場合の「法の抜け道」あるいは「詐欺」というのは、この個人情報を抜き取ることである。個人情報を抜き取ってしまうと、抜き取った情報をどこかに売りつけることも、自分たちが詐欺として利用することもできるだろう。
 そのためにも、カードを発行する前から、決して詐欺グループに情報を抜き取られることのない完璧なカードの作成というのが、必須になる。
作品名:精神的な自慰行為 作家名:森本晃次