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理不尽と無責任の連鎖

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 これも、先生が生徒の一人一人のアレルギーを掌握していればいいのだろうが、クラス四十人、五十人という生徒を一人一人把握できていればいいが、できてもいないくせに、アレルギーの知識もなく、無理やり食べさせたりすれば、こちらも命にかかわることになる。
 これもどうせ、学校側が先生に責任を押し付けて、自分たちは安泰なのだろうと、まるで政治家のような、
「大人の仕置き」
 ということになるのだろう。
 平野も牛乳が嫌いだった。乳製品全般が食べれない。
 平野自身はそれを公言している。
 最初に担任になった先生の前で、牛乳を残すと、必ず、
「牛乳を飲まないの?」
 と言われる。
「はい、アレルギーなんで」
 と言えば、絶対に飲ませようとはしない。
 まさか、先生が、
「今度診断書を持ってきなさい」
 などというわけもなく、もし言われれば、アレルギーではなく、身体が受け付けないとでも言おうと思っていた。
 そんな学校嫌いな小学生だった平野は、その頃から大人しかった。変に目立つと苛められるというのが分かっているので、下手に騒いだりしなかった。
 だから、学校でうるさくしている連中を見ると、腹が立ってくる。まるで時運たちの学校であるかのように振る舞っているのを見ると、学校に行きたくもないのに、どうして行かなければいけないのかという思いがさらに深まってくる。
 何と言っても、やりたくもないことをさせられるという思いが学校に対してのトラウマになっている。それがトラウマであるということを思い知ったのは、やはろプールで溺れたことだろう。
「プールのトラウマ」
 これが、平野にとっての、今では無数に存在するトラウマの最初だったのではないだろうか?
 ひょっとすると、もっと前にあったのかも知れないが、何しろそれよりも幼いとなると、意識がない。ただ、もしトラウマになっているかも知れないとすれば、幼稚園の時だったか、家の近くで遊んでいた時に、ハチに刺されたことだった。
 刺してきたのはミツバチだったので、そこまで大げさなことはなかったが、プールでの溺れた思い出も前というと、ハチに刺されたことしか、記憶として残っていない。
 大人になってからでは分からないが、子供の頃であれば、記憶として残っていることが、意識として働いたことではないかと思えたのだ。
 だから、もし記憶に残っていないことであれば、意識もしていなかったということになり、意識しなかったから、記憶に残っていないということなのだろう。
 ハチに刺された時、ちょうど、公園の奥に小さな池があった。その池にボールが転がっていったのだったが、そのボールを追いかけて、ちょうど、池の横にある草むらに飛び込む形になったのだろう。そこに運悪く、ミツバチがいたというわけだ。
 あの時、すぐにどこかのおばさんが、急いで病院に連れて行ってくれたようだ。鼻をツーンと突く匂いがしたが、それはアンモニアであるということは、だいぶ後になって知ったことだった。
 確か、大きな瓶に入っていたのが印象的だった。確か、綿を丸めて、ピンセットで掴み、アンモニアの駅につけたものを、傷口に当てた気がした。
 とにかく、締め付けられるような痛みで、まるで、爪を立てたまま、つねられたような痛さだった。
 痛みで熱くなってしまった傷口が、ドックンドックンしているのを感じたのだった。
 よくあの時のことがトラウマにならなかったものだ。
 ただ、場所が池だったこともあって、小学校のプールで溺れた時、あの池を思い出したような気がした。
 溺れていて、このまま死んでしまうのではないかと思った時に、まるでつねられたかのような痛みを感じたのは、その時のトラウマだったのかも知れない。
 だが、それ以上のショックがそれまでのトラウマを覆い隠して、さらに強いトラウマに置き換えてしまったのだから、ハチに刺された記憶は、遠い過去のものとして記憶の奥に封印されているようだった。
 もちろん、ハチに刺されたという記憶は残っているのだが、トラウマとしての記憶がないということだ。意識が記憶に変わった時、封印されるだけの余裕が、頭の中にあったのかも知れない。
 子供だったので、中途半端な余裕が残ってしまったことで、記憶にも引っかからず、封印もされなかったということで、溺れた記憶が覆い隠してくれなければ、ハチに刺されたという記憶は、本当に封印されたのであろうか?
 それを思うと、ハチに刺されたトラウマが、プールのトラウマにのしかかってしまうことで、ひょっとすると何かの拍子に、ハチに刺されたトラウマが忍び寄ってくるのではないかと思えたのだ。
 今は、いろいろなトラウマがあって、どれが一番強いトラウマなのかも自分では分からない。どちらかというと、古いものから強いトラウマがあるのではないかと思うのだが、前述の、
「ハチに刺されたトラウマ」
 のように、別のトラウマが隠れていて、そこが谷のように印象が浅い物であったとすれば、記憶に果たして残っているかどうかも怪しい。
 自分の中でトラウマの優先順位がついているつもりであるが、谷の部分を意識していないこともあってか、実際にトラウマとして感じるものの数の方が、意識しているトラウマよりも圧倒的に数は多いのかも知れない。
「そんなにも、僕のトラウマというのは、たくさんあるものなのか?」
 と、高校生になってから感じるようになり、その思いがさらに、引きこもりの気持ちを深くしていくのであった。
 高校生になって、引きこもりになった平野だったが、かろうじて、その頃はまだ、学校には通学していた。もちろん、塾が中心であったが、引きこもりも、塾が楽しくなってくると、しなくなってきた。

               引きこもりの感情

 高校二年生の時の引きこもりは、学校に対してというよりも、家にいてノイローゼのようになったことからお引きこもりだった。そういう意味で、引きこもって家にいるというのは、どこか矛盾しているのだが、引きこもってエームばかりしていると、そのうちに飽きが生じてきたのだ。
 ずっと部屋にいて、雨戸も締め切り、部屋の明かりだけをつけて、朝なのか夜なのかも分からない状態で、ゲームばかりしていると、そうなるのも当然のことだった。ヘッドホンをして、音楽を聴いていたり、ラジオを聴いたり、雑音は入らないようにしていた。
 最初は、心配していた親だが、どこの親でも同じなのか、そのうちに何も言わなくなる。完全にビビッてしまっているのか、平野の頭の中では、
「ふざけんなよ」
 と言いたかった。
「どうせ、世間体のことしか頭にないんだろう。引きこもってくれていて、表に出ないのであればそれはそれでありがたい」
 とでも、思っているのかも知れない。
 食事だけは、部屋の前に置いてあるので、それを適当な時間に引き入れて、食べるだけだった。食べたものは、また表に出しておくと、いつの間にか片づけている。平野は腹が減れば食べるだけで、それでいいと思っていた。これこそが典型的に引きこもりで、そんな状態が一か月くらい続いただろうか?
 最初の頃は学校にも行っていた。たぶん、
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次