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理不尽と無責任の連鎖

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 夏休みということもあり、どこに行っても人が多い。涼しくなると言われることでも、嫌いなものもあったりした。
 一番何が嫌いだったかというと、プールが嫌いだった。
 あれは小学二年生の頃だっただろうか? 学校のプールで、足が立つわけでもないのに、無理に泳いでみようと思ったことがあった、どうしてそんな気持ちになったのか、自分でも分からないが、足を踏み出して、足が届かないのが分かった瞬間、そのまま溺れてしまうことが頭をよぎった。そして、次の瞬間、
「このまま死んでしまうかも知れない」
 と感じたのだ。
 ひょっとすると、ショックとトラウマから、その時本当にそう感じたのだという暗示にかかってしまったのか。それとも、後天的に、後から思い出した時に、記憶がつながったかのようない資金なるのかの、どちらかではないだろうか。
 その時に、誰かに助けられたのも意識としてはあった。
 というよりも、
「本当に気を失っていた時間があったのか?」
 と思うほどであり、その間にところどころ、
「記憶のつぎはぎ」
 のようなものがあったと思うのだ。
 まるでmビデオ編集のようなもので、いきなり違う角度から意識が繋がっていて、そのせいで、
「気を失っていた時期が本当にあったのだろうか?」
 と感じるのだった。
「だから、水に溺れた瞬間、死んでしまうのではないかと一瞬にして感じたのではないか?」
 と感じたのであろう。
 そう思うと、一日一日の長さがその日によって、まったく違ってかんじられるというのも分かる気がした。
 高校に入って、学校の先生が言っていたことがあったのだが、
「大人になると、毎日がまったく同じ時間で過ぎていくような気がしてくるんだ。その思いが、一週間にしてみれば、あっという間に感じさせ、そのかわり、一日一日が、結構長いと思わせるんだ。たぶん、今の君たちの感覚を覚えておけば、先生くらいの年になった時、きっと感じることになるんじゃないかな?」
 と言っていた。
 その先生の年齢は、確か三十代後半くらいではないか。その頃の年齢は、どのような世界を見せようとするのか、今から楽しみであった。
 逆に高校生になってから、小学二年生の頃のことを思い出すと、あの時は、毎日が合っという間だったのに、一週間、一か月、一年と、期間が長くなるにつれて、さらなる時間の感覚が遅くなってくるような気がしたのだ。
 ただ、それは、小学二年生というものが、あまり意識して毎日を過ごしているわけではないということと、本当に印象に残ることしか意識していないということもあって、意識が遠すぎて、時系列を作ることができない。
 時系列を作ることができないと、時間が長く感じられるものだとすると、大人になってから、一日一日が長く感じられるのに、一週間などがあっという間に考えられるのは、週単位、月単位で同じことを繰り返しているからだろう。ルーティンと呼ばれるものだ。
 一日というのは、同じルーティンであっても、時間の長さによって、その配分が違っているのだ。
 だから、同じ一日でも、微妙に違う時もあれば、まったく違う時もある。そう考えるから、一日一日は長く感じられるのだろう。
 小学二年生では分からないのだろう。だから、溺れた時の記憶はその時の記憶ではなく。理屈で考えられる意識と、実際に味わったとぎれとぎれの意識を繋ぎ合わせることで、意識の中の記憶が、まるでその時の記憶だったかのような錯覚を起こさせるのかも知れない。
 溺れてしまったことが、トラウマとなって、プールに入るのが怖くなった。
 特に、カルキの匂いを嗅ぐと、吐き気がしてくるほどで、吐き気を感じると、
「このまま頭痛に襲われて、意識を失ってしまうのではないか?」
 と思うようになっていた。
 そのせいで、水も嫌になり、顔を洗うのでさえ、身体が震えてしまう時期があった。
 さすがに、顔を洗う時に身体が震えるということはなくなったが。そこまでの気分の悪さを身体が覚えてしまうと、それは完全にトラウマだと言っても差し支えないだろう。
 それでも、学校は無理に泳がせようとする。泳げない人は個別に、恐怖を取り払うかのような特別メニューをやらされる。まるで成績が悪くて、追試を受けるための、補修のようではないか。
 その思いも強く。さらに、泳げないことをまるで悪いことのように、強制的に泳げるようにしようという、強引で強行な行為は、学校側からの苛めなのではないだろうか?
 小学校のいうところの、集団行動というのが、どこまで必要なのかということを、小学生の頃に感じた。
 運動会、音楽会など、なぜやりたくもないことを、
「集団行動」
 としてしなければいけないのか。
 それが教育の一環だというのであれば、しょうがないのだろうが、中には身体の弱い子などは、
「校庭に五分立っているだけでも、致命傷になりかねない」
 ということもだっているだろう。
 たいていの場合は、先生がしっかり生徒一人一人の身体を把握して、管理するのが当たり前のことなのだろうが、それとて、完全ではない。
 危険な生徒を校庭の朝礼に無理やり出させて、生徒も気が弱いから先生に逆らえず、先生も一人一人の既往症まで把握していなかったとして、その子が倒れて、危篤状態にでもなってしまえば、誰が責任を取るというのだろう。
 たぶん、学校側は一人の先生に責任を転嫁し、
「先生が、ちゃんと把握していなかったから」
 ということで切り捨てるだろう。
 先生側も、実際に生徒を預かっているのだから、生徒が倒れれば、その責任は担任にあるという覚悟を持って、先生をしているはずである。だから、学校側から責められると、逃げることはできない。もちろん、教育委員会から、学校側にかなりの指導や訓告があるだろうが、紅潮が辞職しなければいけないなどの問題にまではならないだろう。
 それでも、学校で全体朝礼がなくなることはなく、その時倒れた生徒は、免除になるというだけで、他の生徒はどうなってしまうのか、同じことが繰り返させないのかなどという話が教育委員会で話し合われたのか? それすら疑問である。
 学校というのは、教育という言葉を盾に、子供を押さえつけているのではないか? と考えるのは、危険なことなのであろうか?
 もちろん、学校が楽しいと思っている児童もたくさんいるだろう。
「授業は楽しくないけど、学校は楽しい」
 という児童である。
そんな児童がいう、
「学校の楽しいところ」
 というのは、
 友達と遊ぶことであったり、給食であったり、体育の授業などであろう。
 そのどれもが苦痛に感じる生徒がいれば、どれほどの苦痛であろうか?
 中学生以上であれば、不登校の生徒となっても不思議のないものだ。
 そもそお友達と遊ぶことが楽しいというが、友達がいない子供はどうすればいいというのだ?
 給食が好きだという生徒がいたとして、給食で毎日嫌いなメニューが定番で出されたら、どんな気分であろうか? たとえば、コッペパンや牛乳など、毎日のように出るではないか。特に乳製品の苦手な子供も結構いる。それを無理に食べると、アレルギーを起こす子だっているのだ。
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次