理不尽と無責任の連鎖
夏休みに入ると、クーラーをつけて部屋を閉め切っているので、普通であれば、表の声や音はほとんど聞こえてこなくなりそうなものだが実はそうでもなかった。
一番顕著に聞こえてくるのが、セミの声で、どんなにクーラーを掛けていて涼しいとはいえ、セミの声というだけで身体が疲れてくるのを感じるのだった。
セミというのは、一年間冬眠をしていて、やっと成虫になって表に出てきたかと思うと、寿命は二週間ほどということである。
ただ、虫というものが儚い命だというのは、昔から言われていることで、ハチなどは、かわいそうな話の代表格かも知れない。
ハチは、刺すと死んでしまう」
と言われる。
実際にはミツバチ特有のことなのであるg、理由とすれば、
「ミツバチの針にh、返し棘があり、皮膚に刺さると抜けなくなり、無理に抜けば、毒腺ごと抜けて即死する」
というところから来ている。これがいわゆる、
「ハチの一刺し」
と呼ばれる言葉の語源である。
また、ハチの世界では、メスが絶対的な力を持っていて、オスバチは、メスの産卵だけのために生きているという、そして、女王バチとの交尾を終えると、オスのハチはその場で死んでしまうのだ。寿命とすれば約一か月と言われる。それを思うと、ハチのオスというのは、実に儚い命と言えるだろう。
それでも、セミよりは長く生きるということもあり、やはり儚いのはセミということになるのだろうか?
そんなセミの声を聴いていると、一気に夏が来た気がする、セミが鳴き始める前でも、気温が三十三度を超えることもあるのに、三十度そこそこでも、セミが鳴いていると、三十三度よりも、もっと寒く感じられるのは不思議である。
平野は子供の頃から夏が嫌いだった。嫌いな理由はいくつもあるが、その中でも優先順位の大きなものは、セミの声と言ってもいいだろう。
後は、
「寒い時は着込めばいいが、熱い時は脱いでも限界がある」
という考え方と、
「血圧が低いので、立ち眩みがする」
というのもある。
もっといえば、
「食欲がなくなり、夏バテを起こし、その影響で食べれなくなる」
という負の連鎖であろう。
何と言っても、夏はあまり食べれるものがない。好きなものがないと言ってもいいだろう。冬のように、鍋や焼き肉などいくらでも食べれると思うのに、夏というと、冷やし中華であったり、ソーメンなどの麺類が中心になり、栄養が足りない気がするのだ。
ただ、これは体感的な意味であって、冬の方がリアルにきつい場合がある。
まずは、冬になると、感想してくるので、風やインフルエンザなどの伝染病が流行ってくるのだ。発熱すると、高熱が出て、一週間は家で隔離されることになる、インフルエンザの診断を受ければ、
「もし、三、四日で熱が下がったとしても、一週間は会社や学校は休んでください」
と言われる。
夏風邪も結構きついが、熱はそこまで出ることはないので、長くても、二、三日がいいところであろう。早い時は翌日には会社や格好に出かけても問題はないだろう。
また、冬というのは、寒さで身体が固まってしまうという時期であり、それだけに、ケガをすれば大きい。ちょっと転んだだけでも、子供でも骨が折れるくらいのことは普通にあるだろう。
それを思うと、冬というのも、夏以上に気を付けなければいけない時期ではあるのだ。
だが、それでも平野は夏の方が断然嫌だった。汗を掻き始めると、身体がべたべたしてしまい、一気に汗に体力を吸い取られてしまう。他の人はどうなのか分からないが、
「夏の方が頭痛が続く」
という感覚であった。
あくまでも、夏の場合は、
「続く」
ということであり、平均した頭痛はどっちが多いのかは分からない。
何しろ、元々が頭痛持ちだからだ。
頭痛というと、
「偏頭痛ではないk?」
と言われるが、たまにあるのが、飛蚊症のようになった時、嘔吐を伴って頭痛を引き起こすことがある、
そんな時の頭痛はまるで脈打っているかのような痛みであり、
「まるで頭が虫歯になった時のような痛みを感じる」
というような感じであった。
虫歯の痛みは、まだ意識を抑えることができると、痛みを他に散らして、緩和することができるが、虫歯の痛みは、
「病院で治療しなければ、基本的には治らない」
と言われているのに対し、
「頭痛の痛みは、クスリを飲んで、ある程度じっとしていると、自然と収まってくることが多い」
とも言われる。
そんな頭痛の痛みに対しては、クスリを飲んで我慢していれば、いつかは治るという意味で、虫歯よりはマシかも知れない。
また、頭痛が起きる時のパターンとしては、
「睡眠事案が中途半端な時によく起きる」
と思っている。
特に夏休みなどという長期休暇となると、どうしても、生活が不規則になる。しかも、夏というただでさえ、身体のだるい時期であれば、少なからず、楽をしたいと思うのも無理はないだろう。
他の時期ではきつくないのに、夕方くらいになると、毎日のように倦怠感が襲ってくる。それを毎日の慢性化だと思っていると、倦怠感があろうがなかろうが、夕方というものが嫌な時間帯だという風に身体が勝手に錯覚してしまうことだろう。
扇風機やクーラーによって、自然に身体の体温が下げられてしまい、血圧や体温が急激に低下してしまうと、辛くないはずであっても、その時間が来ただけで、辛いと勝手に身体が判断してしまう。
一種の、
「体内時計」
のようなものであり。慢性化してしまったことで、夏が嫌だという意識から、
「夏は、気だるく、頭痛に襲われる時期だ」
と、勝手に覚えてしまうのだろう。
風があると、だいぶ違うのだろうが。それも、気温が一定の温度くらいまでである。最近の夏は、
「三十年以上前と、明らかに暑さの種類が違ってきている」
と言われている。
考えてみれば、昭和の時代などは、まだ一家に一台のクーラーも普及しておらず。電車などでも、冷房車という表記があり、それ以外の車両は、扇風機だけの時代だった。
扇風機だけで、あの満員電車に乗るのである。今であれば、地獄と言えるのではないだろうか。
扇風機は今ではあまり見なくなってきているが、昔は電車の中、バスの中には必須だった。今ではよほどのローカル線でしか、見ることはできないだろう。
どうして昔は冷房車と、扇風機の車両が別れていたのかというと、今ではあまり聞かないが、
「クーラー病」
というものがあった。
「クーラーに当たり続けると、頭痛がしてくる」
というもので、今の偏頭痛のような痛みを伴っていたのかも知れない。
ただ、これは、
「ストレスや姿勢の異常などによる」
と言われる、緊張性頭痛なのか、それとも、本当に偏頭痛としての、
「三叉市根井周辺の血管が拡張し、神経を刺激する」
なのかのどちらなのかが、よく分からない。
どちらにしても、昔はクーラーのない時代から、クーラーなしではいられない時代に突入する間に、クーラーというものの弊害を頭痛という形で乗り越えるという時代があったということも特筆すべきことであろう。
そんな夏でいい思い出は高校生になってからもほとんどなかったと言ってもいい。
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次