理不尽と無責任の連鎖
他の人に悟られないようなストレス解消を考えた時、小説をいうものが頭に浮かんできたのだ。
別に人に公開しなければいいだけのことであり、たとえそれが盗作であっても、放送禁止用語になりそうなことであっても、勝手に表現すればいいだけのことである。
それに気づいた時、平野はさっそく、小説を書こうと思い至った。
そうやって考えてみると、まず、世の中に対しての不満や理不尽に思うことを書きだしていた。
結構あるのには自分でもビックリしたが、それらの題材があっても、なかなか文章にするというのは難しいものである。
なぜなら、不満を書きだしたから、次々に出てきたのであって、書きだそうと思わなければ、逆にその思いを抱きながら、無意識に表に出さないようにしていたのだ。
意識を表に出さないと、我慢できると思ったのか、それとも我慢しなければいけないということを考えたのか分からないが、だからストレスになるのだという構造を、最初は分かっていなかったのだ。
「ストレスは解消しないと、身体に悪いし、精神的にも参ってしまうので、なるべく解消させなければいけない」
と言われているのに、それでも。我慢しなければいけないことは我慢せざるおえないということを理不尽に考えていた。
「どうして、皆こんな理不尽なことを受け入れてしまうのだろうか?」
これを理不尽と本当に思っていないのか、思ってはいるが、逆らうことは許されないという意識から、抵抗する意思を失くしてしまったのか、それを考えてみると、このあたりから、人間というもの自体が理不尽にできていると思えて仕方がなかった。
「どうして、人のために自分が我慢しなければいけないのか?」
ということが考えられる。
その思いは、小さい頃から強いられていた。
家に父親が会社の人を連れてきたりすることがたまにあったが、子供としては、そのおじさんと話をしてみたいと思うこともあったり、
「おみあげが貰えるのではないか?」
という思いから、来訪者に近づきたくなるのは、子供としての本能のようなものではないか。
しかし、大人の世界は子供からは結界があるようで、しかもその結界は最初からあったものではなく、母親によって作られたものだった。
「お父さんの会社の人が来ているから、あんたは絶対に表に出てきてはいけません」
と言われたものだ。
「どうして?」
と聞くと、
「どうしても」
という返答しか返ってこない。
今から思えば。それは説明して、納得させられるだけの理由がないからだった。説明するとして、
「世間体というものがあるでしょう」
という、分からない言葉を言われても、分かるはずもない。
むしろ、反発する気持ちになるだけだった。
その思いをいかに窘めるかであるが、そんなすべが子供にあるわけはない、すべてを理不尽に感じ、親というものが嫌いになる要因となるだろう。
さらに、世間体という言葉もたまに交えられると、世間体という言葉は、子供心に、きれいごとだということを理解できるようになるだろう。
そうなると、溜まってきたストレスの中には、世間体であったり、自分が親から、
「世間の人に見せたくない汚物である」
ということを言われているのだとしか思えず、もれなくストレスとして溜まってくるのであった。
平野が最近苛立っているのが、隣お家の、クソガキのうるささだった。
勉強しようと思っても、隣から奇声を挙げる声が漏れてくる。
本当であれば、注意するべき親までも一緒になって騒いでいる。これは、平野にとって、もはや容認できることではなかった。
かといって、正面切って怒鳴り込んでいくわけにもいかない、それが親から言われた、自分にとってのストレスの元になっていたはずの世間体であった。
きっと親からも世間体と言われ、どうせ、
「それくらいのことは我慢しなさい」
と言われるに違いない。
だからこそ、余計に言えない。黙っていれば、ストレスで済むだけであるが、口に出してしまうと、それがさらに親からの無言の攻撃になってしまう。
親とすれば、丸く収めたつもりになって、
「大人の判断」
をしたということで片づけられてしまう。
そこには、子供への弾圧が存在し、親はまったく分かっていないだけに、決定的な親子の断絶を生みかねない。
だから、子供なりに我慢しているのだ。
「下手に感情を表に出すと、自分だけが悪者になってしまって、孤立するということは目に見えている」
ということになるのだ。
だからと言って、ストレスを放っておくわけにはいかない。
「できることなら、ぶっ殺してやりたい」
と思うのだ。
それができれば一番いいが、そうもいかない。もっと言えば、ストレスの原因となるものを、すべて抹殺しなければ、本当の意味での解消はできないのだ。
一般的にいう、ストレス解消というのは、
「ストレスにまったく関係のないもので、プラス思考にすることで、ストレスの原因を打ち消す」
ということしかないのだ。
「ぶっ殺してやりたい」
とは穏やかではないが、近所迷惑であることを意識しないのは許せない。
何よりも、親が見て見ぬふりをしているどことか、親自体が一緒になって騒いでいることが許せないのだ。
そんあバカ親から育った子供がまたろくでもない親になるのだ。
平野だって、容認できる親ではなく、結構理不尽なこともいう親であったが、そこは、子供が判断できる能力を持つことができたからだ。
厳しいことの方が、甘いことよりも、当然しっかりと考えさせられるというもので、親が一緒になって騒いでいると、
「親が何も言わないのだから、騒いでいいんだ」
と思うようになり、その感覚で大人になると、
「まわりの大多数がいいということになれば、悪いと言われている常識的なことであっても、ルールなんか守らなくてもいいんだ」
ということになるだろう。
それを民主主義における多数決の優位性というものを拡大解釈してしまう人が出てきて、ここでもこの考え方が過半数を超えるとなると、本末転倒もいいところであろう。
近所迷惑に関しては、誰がいい悪いというよりも、曖昧なところで推移するので、結局は欲知的な判断が、そのままの正悪の判断になってしまって、何が正義なのか、分からなくなってくる。
そうなると、勧善懲悪というものが曖昧になり、曖昧になったせいでの拡大解釈が強くなり、そんな迷惑を引き起こす子供を、すべての点において恨むようになるのだ。
子供がうるさいことに関して、頭に血が上ってくると、次第に視点は狭まってくる。見えて範囲が狭まるというよりも、見えているのに、見えていないと勝手に解釈するものである。人間というのは、勧善懲悪への思いは強いのであろう。何が悪いのかということを考えてもいないのに、考えているつもりで、勧善懲悪を叫ぶことが一番の罪である。
少し前に、
「○○警察」
などという曖昧な存在があったが、それを、
「ストレス解消における悪いことだ」
としてしまったことが、本当は一番悪いのではないかと思うのだった。
プールのトラウマ
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次