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理不尽と無責任の連鎖

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 それまでは、本を読むなど考えたこともなかったが、一度、映像化された作品の本を読んでみようと思って、本屋で予約してまで購入し、その日のうちに読んでしまった。
 映像でも感動したのに、それ以上に原作を読む方が数段面白かった気がした。最初はその理由が分からなかったのだが、小説を読むというのが、どれほど想像力を高めることになるのかということが分かったことで、それから読書に嵌るようになったのだ。
「読んでから見るか、見てから読むか」
 という映画のキャッチフレーズが昔あったと聞いたことがある。
 その時のように、先に映像を見てから原作を読んだ時には、そこまで遜色のあるものではなかったのだが、逆に原作を読んで、それが映像化されて見に行くと、
「見るんじゃなかった」
 と思うほどである。
 やはり、最初に自分で想像しながら読んでいると、自分で物語を紡いでいるような気になってくるのではないだろうか。映像のように流れてくるものを受け入れているだけでは、想像力の羽ばたく隙間もない。
 映像作品であっても、想像力があってこその醍醐味である。要するにネタバレした状態のものを見るのだから当たり前である。
 人から映画の内容を口伝に聞かされたとして、誰がその映像を見ようと思うだろうか?
 小説を見て映像を見る時というのは、映像に期待するのではなく、小説の内容をどのような形で映像化しているのかという、
「自分であれば、こういう風にするのにな」
 という思いがなければできることではないだろう。
 そこにはクリエイター目線のようなものがあり、小説を読む時も漠然と読むわけではなく、最初の頃は、ミステリーなどは、自分が探偵になったような気持ちで、謎解きをしようという風に考えたものだ。だが、さすがにそこまではなく。今では、
「自分で、小説を書いてみたいな」
 と感じるくらいになっていた。
 平野は、受験生でありながら、気分転換に小説を読むようになった。ただ、読んでいるだけでは面白くないというのか、ストレス解消にまではならなかった。どちらかというと、ストレス解消のおかげか、それまで文章を書くのが下手だと思っていたので、書こうと思わなかったはずなのに、ストレス解消という意味で何かを書いてみると、思ったよりもスムーズに書くことができた。文章として上手なのか下手なのかは分からない。分からないだけに人に見せるののもありえないと思い、誰にも言わず、一人で書くことを楽しんでいた。
 小説というには、おこがましい。短い文章で、原稿用紙数枚の掌編小説という程度のもので、書いている内容な、正直健全なものではなかっや。学校で起こっている苛めのようなものを書き連ねて、最後は、天誅が下されるかのようなストーリー。言い換えれば、
「自分勝手な勧善懲悪な話」
 と言っていいだろう。
 本人にとってのストレス解消なのだから、それでいい。誰にも見せるわけでもないから、自己満足で十分であった。
 小説を書いていると、最初はただ、書きたい時に書いているだけでよかったのだが、そのうちに、
「毎日書けるようになればいいな」
 と思うようになっていった。
 そもそも、ストレス解消が目的なのだから、別にその時だけの自己満足で、気が付けば、作品が増えていたと思うだけでよかったはずだ。しかし、筆が進んできて、気が付けば、数十作品になってくると、作品の数が自分にとってのトレンドであり、ストレス解消だけではなく、受験生としてのモチベーションにも繋がっていることを感じると、
「毎日書くということを、継続として残したい」
 と思うようになった。
 その思いは、今まで書いていた掌編小説ではなく、短編から、中編、いずれは長編が書けるようになるのを目標にしたいと思うようになってきた。この思いは欲望であり、それまで欲望というと、あまりいいイメージではなかったのだが、自分の好きなことを貫けるような強い意志を持つことが、欲望だと分かってくると、欲望というものに対して、それまでの考えを改めなければいけないと思うようになった。
 欲望というと、どうしても、悪いイメージしかない。欲望に対して、我慢をしなればいけないという発想が、美徳化されることが多い。その理由としては、宗教的な発想が多いのだろう。どうしても宗教というのは、共通して言えることは、
「欲望を断つ」
 というイメージが強い、酒や女、ばくちなどはご法度である。
「酒池肉林」
 などというのは、宗教の教えから比べると、まったくの正反対である。
 とにかく、欲望に対しては我慢しなくてはいけない。それが本当に宗教の教えなのだろうか。仏教などにおいては、酒も女もダメではないだろうか。それなのに、結婚して子供も生まれて、寺が存続される。当然、セックスが行われるわけで、そこはいいのだろうか?
 要するにどこまでが許されるのかということを、宗教団体に入っていれば、その教えを被ることができて、徹底されるということなのか、それとも、本当はまったくダメだと言われているのに、誇大解釈をすることで、容認しているようなものなのかのどちらかではないかと思うのだ。
 しかし、宗教団体であっても、実際に肉を食らい、女を抱き、酒を食らうという坊主もいるではないか。
「天才小坊主と言われた一休であっても、晩年は、リアルな酒池肉林だった」
 という話が言い伝えられている。
 一休の場合はまた少し話が違うのだろうが、実際に酒池肉林の坊主もいたりするだろう。
 さらに、寺社には、自衛という意味合いなのだろうが、時代によっては、坊主による軍隊が形成されていた。戦国時代などでは、神社も大名並みの勢力を持っていて、織田信長に対抗する、石山本願寺であったり、延暦寺などの勢力があった。
 織田信長は、延暦寺の焼き討ちを行ったとされ、歴史上の黒歴史として語り継がれているが、実際には、
「寺社が、宗教団体としての一大勢力になることで、すでに宗教団体ではなく、ただの敵対勢力だ」
 という名目で、焼き討ちに踏み切ったのだ。
 いくら宗教団体とはいえ、政治に口を出してきたりすると、政府から弾圧を受けるというのは当たり前のことで、一大勢力として、歴史の表舞台に出てくると、確かに数強団体と言えども、黙って見ておくわけにもいかないだろう。
 政治利用される可能性もあるし、早めに口実を見つけて滅ぼす必要がある。
 その時代にはキリスト教も入ってきて、混乱も起きてくる。しかも、キリスト教布教の本当の目的は、その国の植民地化であり、その目的のために、相手国に混乱をもたらすゆえの布教という思惑だったのだ。
「混乱に乗じて軍隊を入れ、鎮圧することで、その国を植民地化する」
 というのが、常套手段である。
 そんな欲望を宗教団体というものが持っているくらいなので、一般市民に欲望がないわけでもない。欲もあれば、我慢しなければいけないというものを、抑えきれない感情もあることだろう。
 ただ、それを大っぴらに公言してしまうと、嫌われたり、無視されたり、いざという時、まわりは何もしてくれないに違いない。
 それでもストレスを解消できないとすれば、自分の中でいかに解消するかということを考えるしかないだろう。
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次