理不尽と無責任の連鎖
「大人の中には自分を抑えられなくなると思っている人がいるからではないだろうか?」
と感じていることだった。
最初は、軽い躾のつもりだったのかも知れないが、子供が自分の恫喝で黙ってしまうと、子供を使って、自分のストレス解消に使おうと思う親だっているかも知れない。
特に、父親に逆らうことのできない奥さん。あるいは旦那は浮気をしているのではないかと思って、やきもきがストレスに変わっていく奥さん。
そんな奥さんは、かなりのストレスを抱えていることになるだろうが、その分、解消させる方法がなかなか思いつかない。
そんな時、子供を恫喝することで、ストレス解消になったり、下手をすれば、子供を的にして、旦那への不満を爆発させることで、サディスティックな大人がいないとも限らない。自分もそんな人間だと思い込んだとしても、無理もないことだ。
それを危惧して子供に対して、迂闊な態度は取れないと感じている人もいるのではないだろうか。
そうなってくると、まずは自分が怖くなる。自分が怖くなると、子供を相手にしている自分がさらに怖くなる。
子供が自分を見る目によって、精神状態に大きな変化がみられるとすると、子供に関わることが怖くなる。
つまり、自分という人間が信じられないので、子供の信じられないという理屈である。自分がよく読む小説家も、同じような発想を持っていた。
「子供を教育できないどころか、自分がまともな教育を受けてきていないことを自覚していない親がいる」
ということを書いていた。
この問題が、そのまま苛めの世界に波及しているのではないだろうか。
「苛める方は、苛められた側の気持ちが分かっていない。だから、苛めはなくならないのだ」
という話を訊いたことがあるが、そんなことは最初から分かっていることであるはずなのに、そもそも苛めに走る子というのは、親から迫害を受けていたり、いわゆる「親の愛情」を受けずに育っていない子供なのではないかと思われるが、果たしてそうなのだろうか?
苛められる側の子供の方が、親からの愛情を受けずに育ち、親から迫害を受けることで、表で何も言えなくなると、苛めのターゲットを探している方は、迫害を受けているのに黙り込んでしまっている連中を見て、
「どうしてあんなに卑屈になるんだ」
と思うことだろう。
卑屈になると、苛めたいという衝動に駆られている連中にとっての恰好の餌食である。
昭和の頃の苛めというと、陰湿なものはなかったという。今のような陰湿で人情の欠片もないような苛めというのは、まったく人間としての愛情や、それに類するような感情が備わっていないと言ってもいいだろう、
「苛められる側にも何か原因がある」
と昔から言われてきたが。それは間違いないだろう。
しかし、
「苛める側には苛める側の理屈がある」
というのは、まったく当てはまらないということだろう。
「苛めをする人間は、人間的に誰かを苛めていないと我慢ができない人間だということだ」
という理屈である。
だから。苛めが陰湿で。geん度というものを知らない。苛められた方には自殺に走るというのも分からなくもない。
そう考えると、苛められる側に原因があると言っても、それは仕方のないことで、悪いのは苛める側である。そもそも、自分が誰かに苛められていて、それをいじめられっ子で晴らそうというのは、これほど理不尽なことはない。
「自分は苛められているんだから、誰かを苛めてもいいだろう」
という屁理屈を持ってしまう。
そのような無限ループがいつまでも続いていくので、時代が進むごとに、苛めがどんどん陰湿になっていくのだろう。小説で辛辣なことや、ストレス解消になるような話を書くことくらい、大したことではないだろう。
世の中というのは、何かが起こると、その解決法に、行き過ぎた解釈が生まれることがある。前述の性犯罪の冤罪にしてもそうだ。それまで迫害されてきた、
「性犯罪弱者」
が、コンプライアンスや、ハラスメントという言葉の遵守において立場が強くなり、やってもいない人を犯罪者と決めつけることが多かったりする。
本当は犯人でもないのに犯人扱い。最終的に無罪になったとしても、社会的な立場は失ってしまうだろう。会社にもいられない。結婚していれば離婚。相手に民事訴訟で訴えられれば、慰謝料の問題。踏んだり蹴ったりである。
自分たちが弱い立場にいるという思い込みが、そういう冤罪と悲惨な人生を歩まなければいけないことになる。
そういう意味で、タバコとは同じように迫害されていたとしても、種類が違う。
最近では、受動喫煙防止という法律ができ、ほとんどの場所でタバコを吸ってはいけなくなった。
さらに、
「タバコを吸っているのを見られただけで、罪悪だ」
という風潮になってきている。
これも、性犯罪に関するコンプライアンスという考え方に近いものがあるだろう。
だが、タバコの場合は、
「百害あって一利なし」
と言われる通り、タバコは吸っているだけでも、吸っている人の近くにいるだけでも、
「副流煙」
というものによって、病気になる確率は高いと言われている。
まるで、伝染病を移しまくっているかのようではないか。
それを数十年前までは問題にはならなかった。問題にしようとする人が増えてくることでやっと問題になったのだ。
だが、あれから四十年くらいであろうか。今ではタバコを吸うのが罪悪とばかりに、白い目で見られた李する。
この前まではパチンコ屋などでタバコを煙たいなどというと、喫煙をしているくそ親父から、
「ここでは吸ってもいいんだ」
と切れるバカがいる。
高校生の平野は言ったことがないが、先輩からそういう話を訊かされると、本当に虚しくなってくるのだ。
つまり、法律が変わっただけで、我慢できているのであれば、もっと早く思い切ったことをしてもよかったのではないかと思う。緩い政策をしていると、そのうちに手遅れにならないとも限らない。それが環境問題だ。
コンプライアンス問題にしても、性犯罪であったり、会社のハラスメントであったり、そのほとんどは泣き寝入りばかりであった。
例えば強姦罪などは、うまい弁護士に罹れば、
「このまま訴えると、被害者のお嬢さんが、裁判で好奇の目に晒されることになりますよ。それなら、示談に応じて、お金を貰って、訴えを取り下げる方が、身のためだと思いますが」
と言われて、泣き寝入りということになったり、あるいは、会社なのでは、
「この会社でこれからもやっていくにしろ、他の会社にこれから面接に行くとしても、こういう裁判を起こしたところは相手にしてもらえないですよ。明日は我が社だと思うでしょうからね」
と言われると、当然、こちらも泣き寝入りするしかないだろう。
大企業ともなると、顧問弁護士がいたりする。会社のトラブルの専門家にかかれば、コンプライアンス問題など、いくらでも丸め込めたのだろう。
ただ、今はそういう問題を相談できる民間相談所もできたし、コンプライアンスに関しての会社側の義務も結構定着している。
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次