理不尽と無責任の連鎖
そういえば、昔の画家のことを人から聞いた話だったが、
「画家というものは、目の前の絵を描く時であっても、そのままを表現しようとするものではなく、不必要だと思う部分は、大胆に省略して描いてもいいんだと言っていたんだよ」
「省略すれば分かるんじゃないかな? 絵に辻褄が合わなくなるのでは?」
「いや、そんなことはない。違和感がなくなるのは、それが絵画の魔力というもので、省略しても、どこを省略したのか、すぐには分からないようになっているのさ。それはうまい下手というよりも、作家の才能と天性の能力というものおが影響しているのではないかと思うんだよ」
そんな話を思い出していると、
「小説でも同じことが言えるのではないかと思い、ところどころに中途半端な書き方をしてみたけど、それが謎となってラストに続いていく。それが小説というものの醍醐味なのではないかと思うんだ」
と感じていた。
「もし、自分が絵を描けるようになっていれば、プロットを絵にしても面白いかも知れないな」
と、自分で感じていたのだが。絵と小説とでは、明らかにお互いを侵してはならない何かがあって、その時の作家の旅は、
「それを見つけるための冒険のようなものだ」
と言っても過言ではないだろう。
「それでも、メインは絶対に小説なんだ」
と、並々ならぬ思い込みが小説にあることに気づいたその作家は、その時点である程度自分の作家としての道が見えてきた気がしたのだ。
小説を読んでいると、自分も書いてみたいと思った。ストレス解消のつもりで、最初は箇条書きくらいで書いてみると、箇条書きくらいであれば、いくらでも書けた。ただ、それを文章に紡いで、さらに物語にしようとすると、ここに何らかの結界があるのだ。
最初は、
「あまり過激なことを書いて、実際に本当のことになって、それが自分に降りかかってくればどうしよう?」
などという浅はかなことを考えたものだが、書いた小説が本当になるのであれば、これほど楽しいこともない。いくらでも書いてやりたいと思うことは存在するのだ。
だが、心の底で、どこかに罪悪感があるのだろう。下手に結界を破って、ストレス発散だけを目的に書いていると、その戒めを受けることになるのであれば、本末転倒である。
ただ、今回試しにであるが、隣のガキのことをちょっと書いてみた。プールでうるさかった時のことを思い出しながら、
「お前なんか、プールで溺れてしまえ」
と思っていると、プールで泳ぐことが本当になくなった。
これは伝え聞いた話であるが、家族で市民プールに行った時、子供を幼児用のプールだからと言って、一人で泳がせていたのだったが、興味本位からか、子供が水に顔をつけてしまい、呼吸法を間違えたのか、水を飲み込んでしまったようだ。かなり苦しかったようで、意識がなくなるくらいにまでなってしまったようだ。
急いで、救急車を呼んだり、蘇生措置を施したりして、何とか意識を取り戻したが、子供は完全に水を怖がるようになり、親も神経質になって、学校でもプールで泳げなくなったようだ。
学校で先生は、それでも少しずつでも泳げるようにしたいと努力をしたようだが、子供が完全にトラウマになっているようだ。顔を洗うのも怖いという。
学校でも、
「しばらくは、このままにしておいて、しばらくすれば、水に慣れるようにしていこう」
という方法を取るようにしたのだ。
家でも、水に関わることはしなくなり、庭で何かをすることもなくなった。
そのおかげもあってか、友達と遊ぶこともなくなり、静かになったのだ。
平野は、自分が悪いのかも知れないと思ったが、悪いことをしたという意識はなかった。
「俺は自分の権利を守っただけだ」
と感じたのだ。
それでも、若干の後ろめたさがあったのは、人間としての感情を考えたからだったが、うるさくして他の人に怒られたり、文句を言われて家族ぐるみで、ご近所トラブルを起こすことを思えば、子供が大人しくなるくらいいいのではないだろうか。
これも一つの教育である。
「うるさくすれば、近所迷惑になって、まわりから疎まがられる」
ということを、子供が悟ればいいだけのことだった。
何も子供だからと言って、うるさくしてもかまわないというわけではないのだ。
そもそも、
「子供というのはうるさいものだ」
という概念が間違っているのではないか。
大人になれば、近所迷惑だということも分かるし、明日は我が身なのかも知れない。
いくら文句を言っても。大人というのは、
「子供がすることだから」
と言って、自分の子供の正当性を訴えるが、そんな奴に限って、今度は隣室で子供がうるさくしていたら、
「うるさい」
と言って、文句をいうに違いないのだ。
そもそも、近所づきあいというと、皆相手のことを考えていると言いながら、しょせん、自分のことしか考えていない。子供のことであれば、子供を言い訳にして、自分を正当化しようとする。
平野は、ストレス解消の小説を書いている作家の話を思い出していた。
確か、温泉宿に泊って、小説を書いている時、いつも妄想の世界にいるということだった。
ただ、その妄想の世界というのは、自分の家で小説を書きながら想像する光景が、小説を書き終わった時に打ちあげ気分でいく温泉だったという。
しかし、実際に温泉に行ったことはなかった。連載がひっ切りなしで、温泉に余裕をもっていけるほど、精神的に落ち着いてはいなかった。
だが、温泉宿のことを考えていると、なぜか小説を書く手も止まることはない。書いている内容と想像していることが違っているというのも、おかしな感じであるが、集中していると、えてしてそういうこともあるのではないかと感じたのだ。
新たなジャンル
最近では、
「子供の声がうるさいと言って文句をいう人が増えてきて、嫌な時代になった」
という人がいるが、果たしてそうなのだろうか?
昔なら、子供が泣きわめいたり、奇声を挙げたりすると、親が子供を叱りつけて、近所に誤って回ったものだったが、今では、
「子供が泣くのは当たり前、近所はそれくらい我慢しないと」
という風潮になりつつありそうで、そっちの方がどうなんだろう?
子供というものを、最初から泣くものだと決めつけるのは危険な気がする。確かに、子供は言葉が喋れないので、泣き声で知らせることもあるだろう。ただ、それも幼児の間だけだ。
喋エルようになってから、わがままを言って泣き出した子供に対して、オタオタしてしあう親がいる。中には、
「静かにしなさい」
と言って怒れば、余計に泣き喚く子もいるが、それは稀なケースであり、ほとんどは、黙るのではないだろうか。
ちょっとしかりつけるだけでいいのに、そんな簡単なことができない親というのは、どういうことなのだろう。怒ると、さらに泣き声が大きくなって、収拾がつかなくなるということだろうか?
ただ一つの問題は、躾と称して、子供を虐待している親がいたりする。そうみられるのを怖がっているからだろうか?
いや、少しだけ叱るのであれば、虐待になどなるはずもない。一つ平野が気になったのは、
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次