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理不尽と無責任の連鎖

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 だが、ここで反政府組織の方は、完全に油断したようだった。
「自分たちが仕掛けた罠に引っかかった相手を見ていると、自分たちも罠にかかっていたとしても、そのことには気づかないものだ」
 という話があるが、まさしくそうであった。
 警察にいっぱい食わせたということで、組織は、慢心があった。そのため、同時並行で警察の仕掛けている罠に気付かなかったのだ。
 そもそも、警察が、犯人にいっぱい食わされたというだけのことで、大げさに地団駄を踏んで悔しがったのだ。警察はそこまで取り乱すのがおかしいとは、慢心のせいで思わなかったのだ。
 その間にも、徐々に警察の罠がやつらに迫っていて、犯人グループをやつらが発見したところで、警察は完全に組織の暗殺集団を包囲していた。
 組織の連中が行動を起こせば、もう終わりであった。
 組織の方は、実行犯も、幹部の方も、すっかり警察のやり方に騙されていた。
「騙される方は、自分たちが前に騙したのと同じような方法で騙されるとは思ってはいないからな」
 とよく言われるが、まさにその通りであった。
 結局、公安はその連中の逮捕に成功し、さらに犯人グループも抑えたことで、無駄な血を流すこともなく、積年の願い叶って、反政府組織の息の根を止めることができたのだった。
 だが、長い目で見れば、反政府阻止胃の分子が、世の中に蔓延っていて、それはそのうちアメーバのように寄ってくることで、元の形を取り戻し、組織は、別の形ではあるが、新たな反政府組織を作り上げるのだった。
 警察はそれを一つ一つしらみつぶしで壊していくしかないのだ。
「これほど、報われない、もぐらたたきのような仕事もないな」
 と、少なからずの公安の人間は考えていることだろう。
 ただ、警察組織のように単独犯を中心に捜査するのではなく、あくあでも敵は反政府組織だということが分かっているだけ、普通の警察官よりも、士気は旺盛であるのは間違いないだろう。
 そんな状態を小説に書くことで、作者は、いくつか警察と反政府組織との抗争を、シリーズ化していた。
「これで何作かは、ネタに困らないかも?」
 と思っていた。
 実際に、
「事実は小説よりも奇なり」
 というような実際の事件は多く、似たような事件をいかにもフィクションであるかのように書いていたのだった。
「フィクションというのは、何でもありだと思うので、そこまで難しくないと思うのだが、そこに事実が絡んでくると、結構難しい話になってくる」
 と作家の間では、あるあるになっているようだが、
「何でもあり、何でもいいというのが実は難しい。言い訳がきかないからな」
 と言われている通り、どこまでが許容範囲なのかということであったり、どのように先を見ればいいのかなどということを考えていくと、いつもスムーズに書けているはずの原稿が、急に書けなくなってしまうということもあるようだ、
 この作家も、この小説を書いてから、しばらく絶筆をしていたということである。
 一年に何冊も新刊を出しているような作家なのに、二年近くも出していない時期があった。どうやら、出版社との連絡も立って、
「少し、休筆にしたいと思います」
 というのを、一方的に出版社に送り付けて、姿を晦ませた。
 さすがに出版社も困ったようだが、作家というのは大なり小なりそういうところがあるので、出版社も最初から覚悟はしていたようである。
 作家はその間、執筆のことは忘れて、何か所か、逗留していたようだ。
 執筆を忘れたというのは、あくまでも、本を出すための執筆ということで、自分がまだプロになる前の心境に戻りたかったというのが本音だった。
 だから、逗留してる場所は鄙びた温泉宿であったり、有名温泉地の中でも、一番老舗で、老舗過ぎて、客が寄り付かないようなところにいたのだ。
 そこで少し執筆をしたり、温泉に浸かったりと、その日暮らしを堪能していた。
「これが、そもそもの俺の姿なんだよな」
 と自分でも思っていて。プロであるくせに、アマチュア気分になり、小説を書けるようになった時の感動を思い出していた。
 一度プロになってしまうと、よほど環境を思い切って変えてしまわないと、アマチュア時代の自己満足の世界に入ることはできない。
 それが、プロとアマチュアの壁であって、結界というものではないかと、作家は感じていたようだ。
 本を読んでいると、作家の心境が垣間見えるようで、小説は楽しいものに感じてきた。
 ストレス解消に、妄想としてはできるが、実際に行動に出せないことを代弁するかのような小説は、小説評論家たちには、不評のようだった。
「小説というものは、いかにさりげなく自分の気持ちを文章として生み出し、読者の想像力を膨らませることができるかというのが、肝である。こんなに露骨にストレス解消を目的としてあからさまな話を書くのは反則である」
 という批評をしている人がいたが、果たしてそうなのだろうか?
 平野は小説を読んでいて、
「小説家に変わり者が多いと昔から言われていたが、二重人格者であったり、躁鬱気味の人が多いからそう言われるのではないだろうか?」
 と、感じるようになっていた。
 小説を書きながらでも、表からガキがギャーギャーとわめいているのが聞こえてくると、
「あのクソガキども、ぶっ殺してやる」
 と思い、文章でいくらでも、ぶっ殺したりしたものだ。
 しかし、書いた後に読んでみると、自分が露骨に書いたつもりでいる作品は、そこまで辛辣なものではなかった。
 確かにガキをぶっ殺すところまでは書いているが、それは一瞬のインパクトだけのことだった。
「こんなに短い文章だったのか?」
 と思ってしまって、どこまで怒りが現れているのかが、自分でも分からなくなっているのであった。
 それが鬱状態なのか、今回の鬱状態は想像以上に長かったのだが、その鬱状態の中に、さらに躁鬱が存在していた。普段の鬱状態が、入れ子になっている躁鬱の鬱状態に近いものなので、この時の鬱状態というのは、普段の鬱状態よりかなり長い分、慣れてくると、自分が鬱状態にいること遺体に疑問を感じるほどであった。
 温泉旅館にいると、いろいろな発想が生まれて、その都度ノートに記している。普段は、執筆しながらの次回作への思いであったが、今回は、何もしていないところでの発想なので、幅はグッと広がったのだ。
「本当に困ったものだ」
 と思ってはいるが、さほど困っているわけでもない。
 出版社には、とりあえず一方的ではあるが断りを入れておいた、
 戻った時には、自分の席はなくなっているかも知れないが、それならそれでもいい気がした。
 今の状況で、小説など書けるはずがないということを自覚しているからで、二進も三進もいかないというのが本音だっただろう。
 温泉に浸かっていると、嫌なことが忘れられた。そもそも何に対して嫌だと思っていたのか、鬱状態になっているとよく分からない。
 分からないことがストレスになって、鬱状態に跳ね返ってくるのだろう。それを思うと、小説を書くということが、実は書いているうちに、少しずつ忘れていってしまって、かなりの部分を省略しているかのように感じた。
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次