理不尽と無責任の連鎖
確かに一つのことに秀でて、その才能を生かすというのが、実に魅力的な生き方だとは思うが、それに失敗した時、自分に何が残るというのだ。
その一つのことのために、他のことを犠牲にしてきたのだから、秀でたことを失った時点で、他のことは、そのほとんどにおいて、
「落ちこぼれ」
ということになる。
それを自分よりも世間の方が分かっているだけに、実に厄介なことだ。
「こんなの、面白くも何ともない」
そんな人生が待っているだけだった。
これを理不尽と言わずして何というだろう?
世間というのは、一体何によって作られているというのか。それこそ、理不尽というもので作られていると言ってもいいだろう。
そんな世間に対して、
「世間体が」
と言っている人たちは、世間体というものを本当に知っているのかが疑問に思う。
ただ、訳も分からずに、世間体というものを拡大解釈し、ただ単に、
「恐ろしいものだ」
と、その理由もその存在価値も分からずに感じているのだから、それこそ、たちが悪いというものではないだろうか。
理不尽という言葉も、曖昧でよく分からない。
「自分の意に反して。起こったことが自分に対して悪いことだったりする」
というのを、理不尽というのか、それとも、
「誰かに対して自分を犠牲にしてでも助けてあげようと思ったことが、勝手な思い込みであり。相手はさほど困ってもいないのに下手に首を突っ込んだことで、自分自身が底なし沼に足を取られて逃げることができなくなってしまった」
という。そういう話なのか、ハッキリとは分からない。
だが、平野は、後者のような気がして仕方がない。
「世間体という言葉が、誰かのためにと言い換えられるのかも知れないな」
とも感じた。
その誰かのために、やったあげたことが、自分を陥れることになったのなら、それは本末転倒である。
しかし、その本末転倒なことがいかに情けないことであるかということを考えると、世間というのは、本当に何もしてくれない。何しろ、実態のないただの影のような存在だからである。それを思うと。何をどう考えればいいというのか、分からなくなり、恨みの矛先は、
「世間というもの」
に向けられることになるだろう。
逆に実態のないものに怒りの矛先を向けるということは、誰かを恨むわけではない分、いいのかも知れない。
世間全体から受けている圧力を、誰か一人に押し付けたとしても、それは、自分のストレスの解消になるわけでもない。
そのことを分からず、一人だけを恨んでしまうと、その感情は理不尽と言われてもいいのではないだろうか。
その思いが集団となって現れると、苛めというものになる。苛められる方は、誰でも良かったのだ。世間という広いものに対して反抗するよりも、一人にターゲットを絞って苛める方が、苛め甲斐があるし、反応が分かるだけに、ストレス解消にもなる、
苛められた側も、
「理不尽だ」
と思う。
こうやって、理不尽という、ザワザワが、世間体という虚空の中に蔓延していくのであった。
だが、果たして世間というものだけをターゲットにして攻撃していいものだろうかとも思う。その個人にも何か問題がないということも言えないだろう。だが、世間を擁護するのも攻撃するのも世間であり、それに一喜一憂して振り回されるのが個人であるという構図が出来上がっているのであろう。
後出しじゃんけんであったり、理不尽さを無責任にも自分の責任としない考え方こそ、世間としての、
「負のスパイラル」
なのかも知れない。
不満があっても、何もいえない風潮というのは、苛めを受けている人を見て見ぬふりをするという風潮に似ているのかも知れない。
「苛めに関しては、苛める人間が一番悪いのは確かだが、黙って見て見ぬふりをしている連中も同罪なんだ」
と言われている。
それを同じ理屈であれば、悪を悪として言えない世間、あるいは世間体というものは、そのもの自体が虚空の存在であるということの証明のようでもある。
理不尽だと考えるのは、きっとそういう無責任な世間の中にいる連中が一番の原因ではないだろうか。自分の意見をハッキリさせないのは、日和見的なところがあるからなのだろうか。それとも、
「黙っていなければ、次の苛めのターゲットには、自分がされてしまう」
という考えから来るものなのだろうか。
世間体というものを考えていると、虚空であるということを考えると、まるで、悪事を引き置けてくれる受け皿のようにも感じられた。しかし、それ以上に、世間体という言葉を言い訳にして、自分が平均的な人間であり、まわりに溶け込めるということを匂わせているように思えてならない。
「人は一人では生きてはいけない」
という大前提の下に、よく世間の親たちは、
「皆から可愛がってもらえるような子供でいなさい」
とよく言うではないか。
子供というのは確かに、
「可愛がられてなんぼ」
という意識が強い。
それはきっと、
「親同士のマウントの取り方」
に影響があるのではないだろうか。
母親になると、まず世間との親子としてのかかわりは、普通であればm、
「公園デビュー」
というものから始まるのだろう。
最初は誰でも一人で子育てをしている。父親が手伝ってくれる場合もあるが、それはあくまでも、
「親として」
の関わりである。
しかし、父親は仕事もあれば、社会とのかかわりは、母親の知らないところで結構あったりする。そっちに必死になって、子育てに構っている場合ではないということも往々にしてあるだろう。
だから、子育てはほぼ母親の仕事だ。
まあ、それを言ってしまうと、
「男女平等の観点から、そのセリフは聞き捨てならない」
などという人もいるだろう。
しかし、実質的には母親が育てるのが一番しっくりくるのであって、子供にとっても、それが一番であろう。
何しろ、男性にはお乳を出すことができないからだ。
「そもそも肉体として絶対的に違うのに、男女平等などありえない」
と思っている人も多いだろう。
ひょっとすると、男女差別を口にする人の中には、この言葉を十分に理解している人も多いのではないだろうか。
とにかく、母親が最初に母親として世間と関わるのは、やはり、
「公園デビュー」
なのであろう。
公園デビューとは、赤ちゃんをベビーカーに乗せて散歩する時、公園にいる他のお母さんたちとコミュニケーションが取れるかという、子供が主役ではなく、母親たちが主役なのだ。
男女差別と世間体
公園デビューにおいて、母親はそれまで感じてきた人間関係との大いなる違いに気づくことだろう。
学生時代、OL時代などと違って、今回の主役はあくまでも子供なのだ。それなのに、話を訊いていると、結構、OLがしているような話が多いことにも気づく。どこのお店の洋菓子が美味しいとか、服はどこで買うなどとかいう話が主流だったりするのは驚かされた。平野の母親もそうだったのだろうが、最初は誰でも公園デビューは緊張するものである。ただ、一つ言えることは、
「子供を持つ母親としては平等だ」
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次