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理不尽と無責任の連鎖

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 とばかりに、完全にえこひいきしていたのだ。
 そんな人間なので、教室では完全に浮いてしまった。他の生徒は決して彼を地元のヒーローだという目で見ていたわけではない。
「あいつだけ贔屓されて」
 という嫉妬の目で見ていたのだ。
 だから、もう贔屓もされない。誰も相手をしてくれる人もいない。そうなると、学校に行く異議すらなくなってくる。
 学費は援助もないので、辞めるしかないだろう。そうなりと、後はお決まりの転落人生が待っているだけだった。
 働くと言っても何ができるわけではない。半グレ集団か、某自由業のマルボウさんにでも入るしかない。そこでも、
「元スポーツ選手」
 などという贔屓があるわけではないが、世間に中途半端にいるよりもいいのではないか。
 こんな人間がどれほどたくさんいるだろう。毎年のように全国大会に出て、ちやほやされた選手がいるが。その人たちがプロになって、しかも成功するなど、ほんの一握り、ほとんどの人間は切り捨てられるだけなのだ。
 これはスポーツに限ったことではない。アイドルの世界であってもそうだ。世の中に溢れるだけのオーディションがあり、そこで一万人以上の中からグランプリに選ばれた人が、グラビアアイドルとしてデビューしても、グラビアアイドルというのも、世間では山ほどいるのだ。
 テレビドラマの主役になったり、CMに出演することもあるだろうが、その一回で終わりで、あとは、地方営業を余儀なくされたり、仕事を選んでいられないほどの状態になるということも、珍しいことでもない。
 芸術家の世界だってそうだ。有名な賞を受賞して、デビューできたとしても、そこから先がいばらの道で、次回作ができずに、受賞がピークという人間も山ほどいる、
 目指していたことが達成すると、そこで満足してしまって、そこから先のビジョンが見えてこないという人も多いだろう。
 世間というのはそういうもので、世間は一時的に騒いでくれるが、しょせん、すぐに火は消えるものだ。
 他で目立つ火が見えると、そっちに移っていく。世間というのはそういうもので、決して信用してはいけない、モンスターなのだ。
 スポーツで有名になると、
「自惚れるな」
 というのは難しいだろう。
 自分にも自信が持てるようになるのが一番なのだが、まわりがちやほやしてくると、自分を見失ってしまう。誰も窘めてくれる人はいない。しょせん、他人事なのだ。
「他人事だというのであれば、放っておけないいのに」
 と思うのだが、なぜ、責任ももてないくせに、勝手に持ち上げるのだろうか?
 これを無責任と言わず、何といえばいいのだろう。
「世間なんてそんなものだ」
 という一言で、その後の人生が決まってしまう。
 ぐれなかったとしても、学校では落ちこぼれ、一旦失った自信を戻すことはほぼ不可能だろう。
 しかし、それでも、
「自分でやる気になれば、何だってできる」
 などという、実にお花畑のようなことをいう輩もいるが、そんなやつほど、おだてる時は徹底的におだてて。引きずり落とす時は、先頭に立って、引きずり落とすようなことをするのだろう。
 それを分かっているので、世間に対しては、誰が合わせようなどとするものか。
「世間体というものがあるでしょう?」
 とよく言われるが、心の中では、
「世間体? あんなくそのような世間に対して何を示せばいいんだ? 自分を犠牲にしてまで世間に媚びを売るなんて、そんなバカバカしいことはないだろう」
 と思っているが、結局は何も言い返すことができず、そんな自分を情けないと感じるしかないのだった。
 どれほど、歯を食いしばったことだろう。言い返しもできない自分が世間に逆らってもどうなるものではないということは分かっているくせに、逆らうこともできない自分が世間に屈服しているようで、これおそ、ジレンマというものなのかも知れない。
 とにかく、世間というのは、無責任で成り立っている。世間というのは、その結果に対して、まったく責任を取ろうとしないのだ。そもそも、世間には、責任などという言葉が存在しないのではないかと思うのだが、それは個人の集合体が世間であるからだ。
 持ち上げる時も、世間の代表として皆がちやほやする。だからm違和感があるのだ。持ち上げるなら、持ち上げる人個人でやるものだろう。しかし、持ち上げられた人には、誰が誰か分かっているわけではない。持ち上げる人は個人だと思っているが、実際には世間の中の一人でしかないのだ。
 では、引きずり下ろす時はどうなのだろう?
 世間で引きずり落としてはいるが、ここも、世間の代表としての誰かが引きずりおろしているだけなのだ。だから、そのせいで引きずりおろされた人間が何か犯罪を起こしたとしても責任の所在がハッキリとしない。
 世間という架空の存在は、存在しないということを理由に、責任がない。かと言って、個人で引きずり落としてはいるのだが、実際には、世間という後ろ盾があるからできることだ。
「形はあるが、実態のない世間というものに、すべての責任を押していけてしまえば、何だってできるんだ」
 と思っているのかいないのか、しかし、結果的には、そういう風にしか見えないのだ。
 引きずり落としたことで、その人の人生が狂ってしまったとしても、誰も責任を取ろうとしない。
 下手に、同情などをしたものであれば、自分が責任を負ったかのように見られてしまう。それこそ、すべてを自分に押し付けて、皆逃げようとしているのだから、自分だけが貧乏くじを引くわけにはいかない。だから、誰も彼のことを、
「かわいそうに」
 と思ったとしても、ただ自分だけで感じるだけで、まわりに悟られないようにしている。
 責任を押し付けられてはたまらないからだった。
 まるで、苛めの傍観者のようではないか。
「苛めは悪いことだ。助けなければいけない」
 とは思ってみても、
「迂闊に助けてしまうと、自分が今度はまわりからのターゲットにされてしまい、運命が変わってしまう」
 と感じる。
 これも、以前に読んだおとぎ話のようではないか。何千年もその場所に根を晴らしておいて、ずっと誰かが来るのを待っている。相手を言いくるめて入れ替わることで、自分がその場から逃げ出すことができる。
 他人など、構っていられないのだ。自分さえよければそれでいい。
 世間体を気にする人は、この。
「自分さえよければそれでいい」
 という考えを嫌っている。
 いや、嫌っているように見えるだけだ。
 まわりに合わせることで、自分への責任を回避したいという考えが先にあるのだろう。
 目立ちたいという感情を押し殺し、その他大勢でいいという実に面白くも何ともないそんな人生を自分で選ぶのだ。
 本当は目立ちたいと思っても、
「出る杭は打たれる」
 という言葉があるから、出ることもできない。
「よほど自分に自信があることを武器にすれば目立つこともできるはずだ」
 という考えもあるのだろうが、
「待てよ。今はいいかも知れないが、スポーツ選手のように、何かの原因で、自分に自信があるものが世間で通用しなくなると、もう自分には武器はない」
 と思ってしまう。
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次