理不尽と無責任の連鎖
日本人は。人の死というものに対して印象が浅い。戦争もなければ、昔からの死因として言われていた死以外の突然の死というものに、さほど意識がない。事故や自殺などは、その時は衝撃であろうが、結構すぐに忘れてしまうのである。
地震や水害などの天災であっても、
「風化させてはいけない」
と、活動する人がいるが、そもそも、風化させてしまうだけの民族性だということを意味しているのである。
世代が変わっていくのであえば、しょうがないところもあるが、少なくとも記憶が鮮明な、二、三年で風化などという言葉が出てくること自体、異常なのではないだろうか。
ただ、マスゴミがそう言って煽っているだけなのかも知れないが、そのマスゴミの餌食になるのも一般市民、同じ穴のムジナとも言えるのではないだろうか。
「流行などは、ものによって違うが、基本的に周期があって、それに沿って、再度流行ったりするものである」
と言われている。
それを一緒の連鎖と言ってもいいのではないだろうか。
そういう連鎖というのは、世の中の癌であるのだが、別の見方をすれば、一種の必要悪なのではないかとも思える。
他の悪を退治するための、必要な悪、ということは、このような連鎖を伴う悪よりももっと悪質なものがあるということであろうか?
「連鎖というのは、一体どういうものなのであろうか?」
と、考えさせられる。
さすがに高校生の平野にはピンとすることもないだろうが、蔓延っている悪の中で、いかにこれからの世をまともにできるのかを取捨選択できるかどうかが問題であろう。
いくら日本が民主主義で主権が国民だとしても、すべてに得になることなどあるわけもない。今のままでは、
「後出しじゃんけんの方が勝ってしまう」
というそんな世の中にしてしまっていいのだろうか?
理不尽と無責任
平野は、そんな立派なことが言える人間ではないと思っているが、世間というところには、
「偽善者」
と呼ばれる人間が溢れているように思う。
特に、誰かが何かの事件や事故で犠牲になったという話を訊くと、
「それは可哀そうだ」
「冥福をお祈りします」
などと、SNSに書きこまれていて、そのうえで、その犯人や事故の責任の所在という意味で、誰かを攻撃している。
人を攻撃するための大義名分として、かわいそうだと言ったり、冥福を祈るなどという言葉を、まるで言い訳のように使っているのを見ると、どうにも理不尽に感じられるのだ。
確かに気の毒なのだろうが、SNSで避難している連中にとって、痛くも痒くもないことだろう。それを、あたかも正義感を振りかざして、
「○○警察」
のごとく、
「俺が正義なんだ」
と言わんばかりの人たちに虫唾が走るのは、いけないことなのだろうか。
さらに、マスゴミもそんな連中を煽ったような記事の書き方をする。しょせんやつらは、自分たちの記事が売れればそれでいいのだ。世間的に騒動になってくれた方が、自分たちの記事が売れるのだから、ありがたいと思っているに違いない。
そんな中で、どこに正義などが存在するというのだ。正直平野は、事故に遭ったり、事件に巻き込まれて死んだ人を、かわいそうだとは思わない。kしれない胃の毒とは思うかも知れない。
そんなことをいうと、白い目で見る人がいるが、自分の身内でもないのに、よく涙を流せるなと思えてならない。偽善に思ってしまうのは、捻くれているからであろうか?
まあ、人が死ぬというのは、少し話が大げさであるが、少し話の視点を変えて、例えば、何かのスポーツ大会などで、自分の母校の選手が、全国大会に出るとか、いうことになると、校庭から、表に見えるところに、
「○○競技 二年〇組 ○○君 全国大会代表 がんばれ」
などという横断幕が掛けられていたり、最寄りの駅にも似たような横断幕が掲げられていたりする。
平野は、それを見るたびに、虫唾が走った。
「そうやって大人がおだてておいて、結局どうなるというんだ?」
と思うからだ。
昔の野球留学制度などのある学校の話をよく聞いたことがあり、今でもスポーツ推薦などというものもあったりする。
中学高校で優秀な成績を挙げた人が、
「学費は無料」
ということで、大学に推薦で入学する選手が結構いる。
野球などの場合もそうだが、基本は、
「選手の間、成績が残せれば学費は無料だが、選手として成績が落ちれば、学費が発生する」
というものだった。
スポーツなどは、ケガとは隣り合わせである。
時に野球などのような団体競技だと、まわりの手前、故障するかも知れないと思っても、試合では無理をしなければいけない。そのせいで、野球ができなくなったとしても、誰も面倒は見てくれない。したがって、学費免除もダメで、学校では成績がついていけず、結局退学を余儀なくされる。そんな生徒が大半を占めているという。
当然脚光を浴びるのは、ごく一部の人たち、落ちこぼれて、退学していった連中に対して、有名選手をちやほやはしても、忘れていくだけのことではないか。
「持ち上げておいて、手を放して下に叩き落す」
それを無責任と言わずに何というか。。要するに、有名で時の人でないと、誰も相手にしないのだ。そんな連中がちやほやしている一部の人間だって。ケガをして選手でいられなくなったら、すぐに忘れられる。オリンピックで金メダルと取ったと言っても、果たして次のオリンピックが始まれば、よほどのファンでもなければ、
「誰だったっけ?」
という程度である。
世間の冷たさというのはそういうもので、誰が落ちこぼれた人間の面倒など見るものだろうか?
世間からは忘れ去られていき、あれだけちやほやしていた連中が急に冷めた目で見始める。
「スポーツができなくなったやつなんて」
という目で見る。
明らかに上から目線である。そんな目線を浴びていると、自分が委縮してくるのが分かり、そうなると、自分が本当は何もできないことを悟るのだ。
スポーツでちやほやされていた時は、何でもできると思っていた。それは自分が何でもできるわけではなく。何をしても許されるというような印象があり、お金を出して買わなくても、店の人が、
「いいよ、持っていきな」
というような態度を取ってくれたからだ。
まだ少年なのだから、そういう好意を喜んで受ける方が、子供らしくて好感が持てるだろう。下手に遠慮などすれば、却って生意気に見られるということさえ考えるようになっていた。
だが、スポーツができなくなると、普通であれば、
「かわいそうに」
ということで、同情してくれるものだと思っていた。
しかし、世間の目はそんなに甘くはない。地元のヒーローでも何でもなくなってしまった少年は、持ち上げる必要もない。つまり。世間は彼という人間を見ていたわけではなく、
「地元のヒーロー」
という偶像を持ち上げていただけなのだ。
そのため、誰も彼を擁護することはなくなり、見捨てることになる。
学校では、それまですべてを犠牲にしてスポーツをしてきたので、勉強などとっくの昔に追いつけなくなっていた。
今までは、
「授業に出席さえしてくれれば、それでいい」
作品名:理不尽と無責任の連鎖 作家名:森本晃次