バラとスズラン、そして、墓場まで……
下手をすると、今回の逮捕劇が未遂に終わったことで、死ななくてもいい命がいくつ失われるかということを考えると、目の前の事件を解決できたとしても、
「お前は何てことしたんだ。お前のちっぴけな正義感が、たくさんの命を奪うことになるかも知れないんだぞ、もしそうなったら、お前がやったことは、ただの自己満足でしかない」
と言われるだろう。
刑事に憧れて警察官になった人の中には、昔の刑事ドラマを見て、
「勧善懲悪の気持ち」
で、刑事を目指す人が一定数いるだろう。
そして、そんな連中は必ず刑事ドラマを見て憧れを持つのだ。
警察の縦割りに対しての不満、さらにヤクザ顔負けの縄張り意識、さらに、何かなければ動かないという警察の公務員意識に対して、ドラマは完全に挑戦していた。
しかし、それは視聴率を稼ぐためのもので、かなりの部分が盛っているのも事実であろう。
先輩刑事も同じ思いで入ってきた人も多いだろう。今では完全にドラマはドラマと割り切っているので、どこかで、自分の考えが変わっていく契機があるのだろうが、そういう意味では、
「これは誰もが通る道であり、これを乗り越えてこそ、一般人から警察官になれるのだ」
と考えてもいいだろう。
勧善懲悪や、警察の体制のいい悪いは、一言では言い表せない問題を秘めているのだった。
要するに、
「どれほど冷静に先を読むことができるのか?」
ということである。
まずは、警察組織というものに対してであるが、たぶん最初に警察に入った時というのは、縦割り社会というものを自分で分かっていながら、入った人がほとんどであろう。少なくとも自分がこれから働こうというところがどういうところなのかということを下調べくらいはするだろうし、警察官になろうと思ったきっかけがテレビドラマだったりもするわけなので、警察組織のいいところばかりをテレビドラマでやっているわけではない。むしろ、そういう組織に対して、一人の勧善懲悪な刑事が立ち向かうという構図を描いたものが多いだろう。
ただし、あくまでも、ドラマはドラマである、確かに最後は誰が正しいのかなどということを明確にはしていない。警察組織側から見た話もしっかりと描いている。
「警察に入って、自分でやりたいことをやるなら、出世して、それができるまで上り詰めるしかない」
という理屈になる。
そのためには、勧善懲悪はおろか、自分の意志まで木っ端みじんに砕くだけの覚悟が必要な時もある。
「大人のつきあい」
などという、接待に招かれて、上司のご機嫌伺いをしたり、上司に忖度し、やりたくもない汚れ役をさせられたり、下手をすれば、自分だけが責任を取らされる羽目にならないとも限らないが、それでももがき苦しみながら、上を目指している人だって実際にはいるのだった。
ただ、気を付けておかないといけないのは、よほどの覚悟と一貫した強い意志がなければ、長いものに巻かれてしまうということである。
いつの間にか自分のカネと利権に塗れてしまい、保身のために金を使うという、そんな下衆な警察官に成り下がってしまわないようにしないといけないということだ。
それは、まるで血を吸われた女性が、ドラキュラになって生まれ変わるという話と同じではないか。
魂を抜かれた後に、悪の魂を埋め込まれてしまったのであれば、それこそ犬死であり、さらに一番自分のなりたくないものになってしまうというのは、実に本末転倒なことである。
しかも、一般募集から警察官になった人間は、出世したとしても、最高でも、
「警視長」
と呼ばれるところまでだという。
つまり、それ以上になるには、国家公務員一種の試験に合格してからの、いわゆる、
「キャリア組」
でないとできないという、
ちなみに、ノンキャリアの場合は、一般の警察官採用試験に合格することを前提とし、そこから警察学校に入校し、巡査という階級から始まるという、地方公務員からという一般昇進になるのだ。
昇進するには、昇進試験に合格する必要があり、警備補、警部、警視を経て、その上の警視正になった時点で、初めて国家公務員の資格が与えられるということになる。
ちなみにであるが、都道府県警察において、東京都は少し特殊である。そもそも東京都というものが特殊である。
ちなみにの、またちなみにとなるが、元々廃藩置県において、最初に東京都というものは存在しなかった。東京は大阪と同じで東京府だったあのだ。
「東京府東京市○○区」
これが、昭和十八年まで続き、それ以降は、東京都という特別行政区域となったのだが、いわゆる、
「警視庁」
と呼ばれるものは、東京都のみを管轄するもので、その最高位が警視総監である。警察勘の階級において、最高位に位置する。(その上の警察庁長官は階級街のため)
道府県警察本部の長である、警察本部長は、その下の、警視監であったり、警視長と呼ばれる人が就任する。つまり、ノンキャリアは、警視総監にはなれないが、道府県警察本部長にはなれるということである。
話は若干逸れてしまったが、警察機構の話というのは、結構ややこしく、捜査権限などの細かいことなどは、警察法というもので、管理されている。警察のトップは、警察庁ということになるのだ。さらにちなみにその上は、国家公安委員会であり、内閣府の外局と言われる、行政機関になるのである。
そんな警察機関というのは、縦社会というものと同時に、縄張り意識もある。いわゆる、
「管轄」
というものだ、
都道府県が違えば、警察本部も違うので、下手をすれば、自分たちの県で通用していたことでも、県をまたいだ時点で通用しないこともある。県独自に違う条例のようなものもあって、実にやりにくいであろう。特に東京都接しているようなところでは、その感覚は候で、警視庁と神奈川、埼玉。千葉県警とではまったく違うと言ってもいいだろう。
何しろトップが、警視総監という県警本部長よりも二階級も上であるという事実だけでも、かなりのものだ。
やはり、東京は特別行政区ということになるのだろう。
とはいえ、同一県内でも、警察署の管轄が決まっていて、そこを超えての捜査は許しがいったりする。
もっといえば、逃走犯人が管轄を超えて隣の警察署管内に行ってしまえば、手出しができないというところもあったりする。
もちろん、極端な例であるが、目の前を走り去る犯人を逃がすことになりかねないということは、一般市民としては安心して警察を頼ることができないということだ。
何と言っても、警察官は、公務員、警視正以上は国家公務員になり、警視正未満は地方公務員だ。
テレビドラマの刑事ものなどで、捜査の指揮を取っている警部級であっても、地方公務員なのである。
どこまであてになるかあるか分からないというものである。
そんなことを考えていると、いちかが、
「そのバラとスズランというものについて、どんな意味があるのか、推理してみようか?」
と言われた。
「何か意味があると思うの? 別に適当だと思っていたんだけど」
というと、
作品名:バラとスズラン、そして、墓場まで…… 作家名:森本晃次