バラとスズラン、そして、墓場まで……
エレベータで三階のいちかの部屋にやってきて、扉を開けると、いちかが、待ちわびたかのように抱きついてきたのには、さすがのゆいもビックリした。
「どうしたんですか? いちかさん」
と聞くと、
「最近、少し体調を崩していて、パートも少し休んでいるので、人に会うこともなくて寂しかったのよ。ゆいが来てくれて本当に嬉しいわ」
というと、ゆいも、いちかに抱きつかれたことで、数年前を思い出し、嬉しくなっていたのだ。
「でも、相変わらずで、私はホッとしていますよ」
と言ったのは、躁鬱症の気があるいちかの今が躁状態にあるということが分かったからだ。
「ありがとう。体調が悪いと言っても、あまり動き回らなければいいだけで、この部屋の中で動き回るくらいは大丈夫なのよ。うん、大丈夫」
と言って、自分にいい聞かせていた。
これこそ、相変わらずというべきで、いちかにはそういうところがあった。
だが、ゆいの記憶が正しければ、そういう態度を取る時のいちかは、決して平穏な性格の時ではないということだ。
――なるべく、刺激しないようにしよう――
と、ゆいは感じたのだった。
それを知ったのは、いちかが婚約をして、その婚約中に、例の悪い女に、いろいろ吹き込まれた時だった。
あの時は、いちかがゆいに相談に乗ってもらっていたのだが、そのウワサの中で、酷いと思ったのは、
「あなたの婚約者は、実は私と一時期付き合っていたのよ。と言っても結婚しようとは思わなかったけどね。どうしてだか分かる?」
と訊かれて、
「いいえ、分からないわ」
と、訝しく答えると、
「それはね。あの男が変態だって気付いたからなのよ」
というではないか。
「変態ってどういうことよ」
とさすがに、怒りがこみあげてきたいちかは、その悪い女に食ってかかったが、そのオンナはまったく動じなかった。
それどころが、不敵な笑みを浮かべて、
「あなたは知らないでしょうけど、あの男には男色の気があるのよ。つまり、ホモっていうこと。しかも、女にも興味があるというから、いわゆる二刀流とでもいえばいいのかしら? 私も最初は分からなかったんだけど、どうやら、私をオンナという目で見ていないのではないかと思うと、だんだん辻褄が合ってきたの。この人は衆道だってね」
というではないか。
「そ、そんな……」
さすがにそれを聞いて、いちかはだいぶ打ちのめされたようだった。
そのオンナはその言葉を置き土産にして、自分たちの仲間内から去って行った。ひょっとすると、この女は、早い段階からこの仲間内から抜け出したいと思っていたのかも知れない。
その機会をうかがっている間に見つけた婚約者の秘密、これこそが、この女にとっての、「リーサルウエポンだったに違いない」
その時、いちかは自分が打ちのめされたことに気づいた。
だが、悪女が自分の前からいなくなったのは、悪女にとっては痛恨のミスであり、いちかにとっては幸いした。
いちかは、躁鬱症なのだ。ちょうどショックの頂点が、鬱状態の底辺だったことで、
「それ以上、沈むことはない」
と思ったのだろう。
いちかは、次第に気が楽になっていた。そして、それ以上彼女を奈落の底に叩き落す人はいなかった。
悪い女は、そこまでいちかの性格を知らなかった。策を弄するために必要ないちかの性格を把握することはできていたが、その奥にあるいちかの強さを把握することはできなかった。
もっと奥を知っていればいちかが、底辺からの立ち直りは早いということを分かっていたであろう。しかし、そんな彼女の奥深くまでの性格を、ゆいだって知らないのだ。
特に、ここ二年ほど連絡も取っていなかったのだから、それも当然と言えよう。
いちかの旦那が、本当に男色なのかどうか、いちかにも分かっていない。いちかが女性であるからそれは当然だ。旦那はあくまでも男の前でだけ、自分が男色であることを洗わずのであって、鏡に、反射せずに、透き通った状態で、先を見るようにできないだろうか? と考えるようなものだった。
いちかは、その時のことを、ゆいに話していた。ゆいとしても、
「そんな根も葉もないウワサを信じる必要なんかないわよ。あの人はハッキリと悪意を持ってあなたを攻撃してきたわけでしょう? だったら、それをまともに受け取ることはないのよ。婚約者の人を信じるしかないと私は思うわよ」
と言って、慰めた。
その慰めが、躁鬱症の底辺にいたいちかにどこまで通用するのか、ハッキリ分かったわけではない。しかし、慰めるしかできないゆいは、そんな時、自分の力不足を体感していたのだ。
だが、いちかとすれば、ほんの少しでも慰めがあれば、それをきっかけにして立ち直ることのできるだけの力を持っていた。
実際にいちかはそれからしばらくして立ち直りを見せ、一機に結婚まで駆け抜けたのだ。ちょうどその時は、躁状態の頂点にいた頃だったので、その時の感情が一番表に出てきたことで、旦那に対しての疑惑が解消されてしまったというのは、ある意味、躁鬱症である彼女ならではのことだと言えるであろう。
寿退社までは結構早く、人によっては、
「そんなに会社が嫌だったのかしら?」
という人や、
「彼女だったら、すぐにでも子供を作って、ママになるんだろうな」
といういくつかの憶測が飛び交ったが、ゆいには、そのどれもが信憑性のないことであるということを分かっていた。
しかし、それをあからさまに否定することはしなかった。本当であれば、好きな人が誹謗中傷されているのであれば、自分から庇ってあげるべきなのだろうが、今の世の中、下手に助太刀して、話をややこしくしてしまわないとも限らない。それが怖かったゆいであった。
「ねえ、ゆいは、私のことをどう思ってる?」
と聞かれたことがあった。
「どう思ってるっていうか、私に似ているところがあると思っているわ」
というと、いちかはそれを聞いて、少し黙り込んでしまったが、それ以上何も言おうとしなかった。
いちかは、ゆいの性格を分かっているつもりだったので、それこそ、鏡に映った自分を見るようである。それはある意味、すべてが見えているように思うが、逆に絶対に見えない場所もあるのだ。
それは背中であって、鏡に映った自分を見ようとすると、身体の向きを変えて、背中を写せばいいのだが、正面からの自分を今度は見失ってしまう。だから、自分であっても、いや自分だからこそ、自分のすべてを見ることはできないのだ。
そういう意味で、もう一人、自分と同じような人が目の前にいれば、両方を見ることができる。つまり、もう一つの性格は、もう一人の自分に似た性格の持ち主と一緒に見れば、自分に似た性格を見ることはできるのであった。
まったく一緒とはいいがたいが、まったく見えていないよりもマシではないかと思うのだ。
もちろん、自分の勘違いであったり、最後の詰めを誤ったりする場合は論外であるが、自分で見える部分をすべて見るということであれば、曖昧な部分は想像力に任せればいいのだった。
そのために、想像力を掻き立てておくというのは必要なことで、いちかも、ゆいも、
「それは日頃から無意識にできていることに違いない」
作品名:バラとスズラン、そして、墓場まで…… 作家名:森本晃次