高値の女王様
「それから、もう先生を続けようとは思わなかったんですか?」
と言われたマスターは、
「実は、他の学校から来てほしいという話もあったんですけど、このまま続けることに疑問があったんです。別に教師が嫌になったわけではないんですが、辞めなければいけないことが理不尽だったということも当然のごとく思っていたので、そのせいもあって、せっかくだったら、他にやりたいことがあったので、そっちをやってみようと思ったんです」
とマスターが言った。
「じゃあ、先生をやっている時から、工芸作家をされていたんですか?」
と聞くと、
「学校を辞めてから、工芸作家の先生のところで勉強していたんですよ。それと平行して、店をやりたいと思っていたので、雇われ店長を探していると、ちょうどここがあったというわけです。先ほど話したサブカルチャーの店が近くにあるので、そこを少し意識はしていたんですよ」
とマスターはいう。
「ちょうど、昭和の名残のあるお店があってよかったですね」
「ええ、その通りなんです。ここのオーナーさんは、ここを売りに出そうか考えていたそうです。でも売りに出しても、建物が残る可能性は低いようだったので、たぶん、駐車場になるのがオチではないかと思うんですよ。だから、売りに出すのと、雇われ店長を募集するのとを並行して行っていたようです」
「マスターにとっては、願ったり叶ったりというところでしょうか?」
「ええ、そうですね。儲けはそれほどありませんし、教師をやっていた頃に比べれば、収入は低いですが、楽しければいいと思っているので、今は楽しくやらせてもらっているというところですね」
「楽しいのが一番。やっぱりこうやってマスターと話をしていると落ち着いた気分になれますよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです。ひなたさんも、どんどん作品を作って、いっぱい発表してみるといい。今まで見えていなかったものが見えてくるかも知れませんよ」
と言ってくれた。
「ありがとうございます。さっそく絵を描いてきますね」
と言って、その絵が何枚か完成したところで、店に持っていった。
それがちょうど、話をしてから一週間後だった。
「結構早かったね」
とマスターに言われたが、
「ええ、描き始めると集中して描けるんです。逆に手が止まると、急に自分が今どこにいるのか分からないくらいになってしまって、不可思議な気分にさせられますね」
とひなたは言った。
小説の書き方ハウツー本
「ひなたさんは、絵を描くこともできるのかも知れませんが、文章を書いてもいいかも知れませんよ?」
と言われた。
「小説ですか? どうしてそう思われたんですか?」
とひなたが聞くと、
「小説というのは、実際に書き始めると余計なことを考えてしまうことが多いので、一気に書く力がないと難しいと感じたことがあったんです。実は工芸を勉強する前に、ちょっと小説を書いてみようと思って、小説教室に通ってみたり、本を買ってきて、小説の書き方というハウツー本を読んだりしていたんですが、どうも思っているようにはいかないんですよ」
「どうしてですか?」
「それはね、本に書いていないことが重要だからなんですよ。講座の先生も本に書いていないから触れようとはしない。ひょっとすると、人によって感じ方が様々な部分があるということで、本に載せていなかったのかも知れませんね」
「それが、さっきの一気に書くということですか?」
「ええ、そうです。集中しているので、自分の感覚で、十分くらいしか経っていないと覆っても、実際には一時間くらい経っているなどということは平気であることなんです。でもこれは小説に限らず集中していれば同じなんですけど、文章を書くというのは、ストーリーを思い浮かべて文章にするわけなので、流れに沿って書かないと、頭の中で忘れていってしまうんですよ。そこが小説を書くということで一番難しいところであって、それができないと、小説を書き始めてもすぐに終わってしまったり、一行も書けずに、机に座って腕を組んで、原稿用紙とにらめっこなんてこと、平気であるんですよね」
「私も、中学時代、似たような経験がありました。宿題の作文がまったく書けずに、宿題を提出できなかったことがあったんです。その時は、自分はテーマが決まっていることを書かされるのが苦手なんだと思っていました。自由に何でもいいからと言われれば書けると思っていたんです」
とひなたは言った。
「その気持ちは今も変わっていませんか?」
と言われ、その言葉の意味を模索しながら、
「変わっていないと思いますけど」
というと。
「なるほど、それは半分正解だと思います。だけどね、実際には何でもいいから、とにかく書けばいいというのが一番難しいんですよ。学校の作文くらいなら、そこまではないと思うんだけど、実際にやってみると、最初からテーマが決まっている方が本当はよほど楽なんですよ。でも、それを自分で許せないのは、きっと、テーマを押し付けられたように思っているからなんでしょうね。その思いがあるから、どこかに反発の思いがあって、せっかくの発想が湧いてこないんですよ。こういうのは、最初に浮かんできた発想から、リズムに乗せるようにアイデアを捻出しなければ出てくるものではありませんからね。小説に限らずですが、芸術というのは、最初が肝心だということなのだと思いますよ」
と、マスターは言った。
「マスターは結局、集中してできなかったんですか?」
と言われたマスターは、
「理屈は分かったんだけど、書きながら、想像し続けて、時間の感覚がなくなるくらいまで発想し続けるということが難しかったんですよ。結局、最後まで書けたことはなくて、断念したというわけです。小説というのは、とにかく、内容はどうであれ、最初のステップとしての課題は、最後まで書きあげることなんです。いくら途中で発想が続いて書き続けることができたとしても、書きあげたという実績がないとダメなんですよ。かなり頑張っていたけど結局できなかった。きっと、この二つ以外にも必要な何かがあって、それを自分で習得することができなかったんでしょうね。そのあたりで、心が折れてしまいました」
とマスターが言った。
「私も、小説を少し前に書いてみようと思ったことがあったんですが、無理でしたね。気が付けば同じことを何度も書いていたんですよ。ある程度まで先が見えてきてから、そのことに気づくと、その先がどうしても書けなくなる。ほとんど大詰めだったのに、まるで、双六で振り出しに戻された感覚ですよ。最初はそれほどでもなかったんですが、同じことを書いていたという意識が頭にあると、今度はまったく集中できなくなった。まるで最初の頃の一行書くのに、脂汗を掻いていたあの感覚ですね」
と、ひなたは言った。