蘇生の成功術
さて、理論上の問題としてのフレーム問題とは別に、今度は、同じ人工知能に入れておかなければいけないものとして、「フランケン主体症候群」を解決させるという問題が大きいのだ。
これは、アメリカのSF小説家が提唱した、
「ロボット工学三原則」
に関係していることであるが、そもそもロボットというものは、フランケンシュタインという小説の中にあるような、危険を孕んでいるものでもあるのだ。
フランケンシュタインというのは博士の名前で、その博士が、人間のためになる強靭で従順な人型の物体を作ろうとしたところ、理想的な身体を作ることには成功したが、頭脳の中で考える力が生まれてしまい、怪物を作ってしまったという話である。
つまり、身体が強靭であればあるほど、ロボットには人間には抗えないという意識を組み込んだ電子頭脳を入れ込んでおく必要があるということであった。
そこ考えられたのが、
「ロボット工学三原則」
というものであるが、これは、あくまでも、SF小説の中のネタとして扱われていたものであるが、今でもとぼっと工学を研究している人にとっては、バイブルとされている。
最初に提唱された小説に書かれている三原則というのは、その名の通り、三条まで存在しているが、そこには明確な優先順位が存在する。それは、矛盾をなくすという意味でつけられたものであるが、小説ではそれを提唱しておきながら、実はさらにそこにはいくつかの矛盾が存在し、ロボットがまるで人間のように悩んでしまって、行動ができなかったり、人間に危機が及んだら、本来であれば、ロボットは人間を救うために命を投げ出さなければいけないのに、それができなくなってしまったなどという、実によく考えられた話になっていた。
ロボット工学三原則は、完全に倫理の発想である。
ロボットというのはあくまでも、人間を補助するものであって、人間の利益を壊してはいけない。人間の生命に危機が及べば助けなければいけない。ただ、そこには、いろいろな矛盾が生じるため、優先順位が必要だ。
だが、この優先順位がすべてにおいて人間のためになるかというと分からない、ロボット工学三原則の基準を壊さないようにして、さらに細分化した細かいマニュアルのようなものをロボットに組み込む必要があるのだろうか。そうなると、マニュアルに矛盾が生じた場合、ロボットがどうなるのかなどということを考えると、フレーム問題と同じように、アリ地獄状態に陥ってしまうことだろう。
それを考えると、ロボット開発という問題も。
「開発してはいけないものだ」
と言えるのではないだろうか。
ロボットという概念はSFや特撮、マンガなどでいろいろ書かれている、タイムマシンでも同じだが、それはあくまでも、開発された後のことであって、それも可能性の一つを題材にしているということであろうか?
そんな、
「開発してはいけないもの」
に変わる何かを考えないと、科学の世界は衰退していくだろう。
そのために、何をどのように開発すればいいかということを、各国立大学では、その専門部を設立し、研究を重ねていた。
中には一部の大学でもランダムに選ばれたところが、
「タイムマシン、ロボットの開発、あるいは、それに代わるものの開発を研究する部署の設立」
と国が義務化したわけではないが、特に研究に成功すれば、研究費は国が全額負担をするということで、いろいろな私立大学に研究を依頼した。
大学によっては、
「今でも経営が苦しいのに、開発費用を捻出できない」
ということで辞退したところもあったが、半分近くの私立大学では、この試みに賛同し、理学、工学、物理学系の学部が、研究室を創設するのであった。
前述のK大学で、歴史研究が大っぴらに研究されていたが、密かに国が推奨する、
「開発できないものに変わる研究」
が行われていた。
こちらは、歴史研究よりも、時代は古く、昭和の終盤から考えられていたもので、世界的にも、タイムマシンやロボットに変わるものの研究がほとんど表に出ていなかった時代のことである。
その時代はバブル経済の時代でもあり、開発が不可能かも知れないことに、お金を使うことも否めない時代だっただけに、密かにであっても、結構踏み込んだ研究もできた。
その時の最初からその研究に携わっていた人が、河合教授という人で、今はもう七十歳になっていることもあって、引退していて、それを後任の山沖教授に任せて、隠居状態だと言ってもいいだろう。
河合教授が残した資料が、弟子であった山沖教授に託されて、さらなる研究が行われていた。
河合教授の残した資料はあくまでも、構想までで、実際に研究がなされたわけではなく、理論の問題だけであった。
昭和の時代と違い、平成に入ってからバブルが弾けると、研究費もほとんどがカットされ、一時期は普通の研究ですら進めることができないくらいになってしまい、二進も三進もいかなくなってしまっていたのだ。
そんな時代を乗り越えて、二十一世紀になると、研究がまた進められるようになった。その頃に、河合教授は研究室の責任者になっていた。
研究費用を昔のように使えないということもあり、かつての理論を封印せざるおえなくなった。あの頃は、何とか細々と研究をしながら、
「開発してはいけないものに変わるもの」
の研究をしていた。
時代は、それから少しして、リーマンショックなどがあり、またしても不況に追い込まれたが、研究に関しては、それまでと変わらず、少々の予算は組まれていたのだ。
それだけ、政府の中での文部科学省も、この研究に力を入れていたということであろうか。それとも、
「今までのように、ダラダラして結果が出ないよりも、一気に勝負を決めて、ダメならダメでスッパリ諦めるという方がいいのかも知れない」
ということで、積極的な開発に舵を切ったのではないだろうか。
そう思うと、河合研究所でも、大っぴらには他の研究室の手前できないので、密かに研究を続けることになっていた。その頃はまだ、国立大学に対して研究を義務化するなどという考えのない時期だったのだ。
それが、義務化されるようになったのは、一度政府が下野したこともあり、再度政権が戻った時の文部科学省は、
「ズルズルではいけない」
という思いがさらに強くなり、国立大学に対し、義務化することで、それを、全面に押し出し、内閣の方針の中の、科学研究部門での中枢研究として、内閣の所信表明でも明言されたのであった。
K大学は元々密かにだったので、今もその方針は変わっていない。そういう意味では、
「K大学というところは、歴史研究においては、一流だけど、他に関してはなかなかパッとしない大学だ」
と言われるようになっていたのだ。
しかし、研究を重ねてはきたのだが、なかなかパッとするものは生れてこなかった。
彼らはまず、
「開発してはならない」
と言われているものをどうして開発してはいけないのかということを、徹底的に研究した。
あくまでも、
「開発してはいけないもの」
ということでの、理論的な論文は発表され、その論文が物議をかもしたことで、全世界的に、
「開発を基本的にはしてはいけない」