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蘇生の成功術

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 という言葉にある通り、だいぶ、先が見えてきたと思っていたのに、実はまだ半分も来ていないということを戒めるようなことわざであるが、これと同じように、まだまだあると思っていた寿命が近づいてくると、死ぬことなど考えたことがなかっただけに、寿命が身近い人よりも怖いと思うに違いない。
 そういう意味では、妖怪や魔物というのは、もし人間になった場合に、一番怖いと思うのは、間違いなく近い将来に訪れるであろう、
「死」
 というものに違いない。
 夢が壊れるのは、そういう意識が近いのかも知れない。
 妖怪は、死という意識がないだけに、ひょっとすると、人間以上に夢というものを大切にしているのかも知れない。
 蘇生を行ったことで、別の記憶がよみがえってきたとすれば、その人と顔が似ていて、まるでもう一人が存在しているかのようだったに違いない。
 クローンでもない、デノムに関係しているわけではない、ましてや、ドッペルゲンガーでもない。それをどう解釈するべきなのだろうか?
「もし、河合教授だったら、どう考えるだろう?」
 と考えてみたが、ひょっとすると、今の自分と同じことを考えているかも知れないと感じた。
 それは、ロボットのように過去の記憶も理性も存在しないロボットとして使うかも知れない。
 だが、ロボットのように、人間とかけ離れた身体を持っていれば、その身体から、もしロボットが意志を持ってしまうと、自分たちが人間に支配されることの矛盾を感じ、教順な身体と電子頭脳を生かして、人間を支配するだけの世界を作ろうとするに違いない。
 それが、
「フランケンシュタイン症候群」
 と呼ばれるものであり、
「ロボット工学三原則」
 の下になった発想である。
 だからロボットは、
「開発してはいけないもの」
 であったのだが、相手が生まれ変わった人間であれば、恐れることはない。
 精神的には何も分かっていないし、こちらが命令しても充実に動くように頭を洗脳しておけばいいのだ。なまみの人間なので、人間を滅ぼすだけの並外れた強靭が身体や、体力を持っているわけでもないし、機械を開発できるだけの知能があるわけではない。
「何も知らない、自分が誰だか分からない、蘇生した人間」
 というだけだ。
 実際には死んでいるわけなので、人権が存在するわけではない、戸籍もなければ、本来なら存在していないはずの人間なのだ。
 しかも、本人は何も分かっていない。ロボットのような状態である。人間に危害を加える力を持ち合わせていない。これなら、
「人間のために役立ててもいいのではないか?」
 と考えるのはいけないことなのだろうか?
 これが、存在しているはずの人間で、しかも、いずれ自分のことを思い出すというのが分かっているのであれば、倫理上という言葉で、守られるのではないだろうか。ロボットのように扱うのは、人間の尊厳を冒していることであり、迫害という意味であったり、虐待だと言われても仕方のないこtおだ。
 しかし、一度死んで、蘇生させた人間なので、ロボットと同じではないかという発想になる。
「ロボット開発ができないと考えるのは、ロボットが人間なら判断できる問題を解決できないということと、人間を守るための三原則を埋め込むことが難しいということから、ロボットは開発できない」
 という発想からである。
 その発想のどこにも、ロボットの人格というか、ロボット格というものが存在せず、あくまでも、人間を補佐する機械というだけのものでしかない。道具であったりm用品としての使い道でしかないのだった。
 蘇生した人間はどうなのだろう?
 一度は死んでしまった人間に魂が宿って、生き返ったと見るべきか。それとも、生き返ったのではなく、魂が取り憑いただけの、道具として蘇生したと考えるべきなのかということである。
 やはり、考える力がないということと、肉体と魂が合っていない証拠が、本人に生き返ったという意識がなく、さらに、違う魂が宿ったとしても、生まれ変わったという意識もない。
 そもそもが、
「他の人の命令がなければ、動くことのできない」
 という郷具にしか過ぎないということだろう。
 それであれば、使ってやらなければいけないという発想になる。もし、生まれ変わった人間に、自分という意識が少しでもあったならば、最初から抵抗があるはずである。
 その抵抗がないということは、
「自分は人間ではない」
 と本人自身で感じているのではないだろうか。
「自分は人間に使われる道具」
 としての意識が芽生えれば、その人は道具として生きていくことができるが、そうでなければ、生き返ったことが間違いだったということになり、よみがえらせた人間の責任において、再度葬ってやるしかないに違いない。
 しかし、さすがにほうむることはできない。そうなると、後できることは、
「他人の魂を、記憶として、その人の中に埋め込んでしまうことだ。そうすれば、その人は生れながらに、違っている記憶だとはいえ持つことができる。最後のところの記憶を曖昧にさえしておけば、いくらでも説得することができる。たとえば、記憶喪失なったなどということを医者が診断するようなことであればいいわけだからね」
 ということであろう。
「でも、それって、倫理上まずいんじゃないですか?」
 と言われても、
「生き返られた人間を殺すよりもいいでしょう。記憶として組み込むことは、他人の遺伝子を取っておいて、後から注入すればいいだけですからね」
「そんな簡単にできるんですか?」
 と聞くと、
「そんなに難しいことではないですよ。普通の人間に対して行うことではなく、蘇生させた人間なので、元々遺伝子が存在しないところに組み込むんですからね。実際に遺伝子の組み込みというのは、それほど難しいわけではない。ただ、元々あった遺伝子との間で副作用を起こしたり、拒否反応があったりするから、難しかっただけのことなんですよ。それを思うと他人の遺伝子を注入するわけなので、それほど難しいことではないでしょうね」
 というのが、ある組織での責任者と担当者の話であった。責任者は続けた。
「ただ、そうなってくると、元々実際に持っているその時代に存在している元々の魂を持っている人間と同じ魂を持っている人間が存在しているということになる。顔が違っているので同じ人間でもないし。最初から作ったわけではなく、肉体を借りているだけなので、クローン人間というわけでもない。それなのに、この二人は結構な確率で出会ってしまうことになるようなんだよ。何か他人には見えない引き合うものがあるというんだろうか?」
 というのを聞いて、
「それって、相手には自分と同じ遺伝子だと分かるものなんですか?」
 と担当者がいうと、
「分かるんじゃないか? これは想像でしかないんだけど、他人から見ると、まったく違った人間に見えるのかも知れないけども、彼らには自分と同じ姿に見えるんじゃないかって思うんだ。ただ、その顔が、本当の自分なのかどうかは分からないんだけどね」
「それはどういう意味ですか?」
作品名:蘇生の成功術 作家名:森本晃次