蘇生の成功術
ただ、向こうが失敗したとは言っても、蘇生させることには成功してしまったことで、その後に発生する問題をいかに解決できるかというところで引っかかってしまったのではないだろうか。
河合教授の魂胆
まったく別の人間の記憶がよみがえったと聞いた時、考えたのが、
「魂と肉体の分離」
だったのだ。
魂というものの中には遺伝子も含まれている。肉体には、遺伝子はないものだと考えた時、先ほどの発想のように、蘇生させた時、魂と一緒に遺伝子をそのまま肉体に戻すと、遺伝子が身体の細胞組織に働きかけて、時間の辻褄を合わせようとすることで、玉手箱のように一気に年を取ってしまうという発想だが、そういう意味で考えると、玉手箱というのは、人間に必要な遺伝子を戻すということになるのだろう。
そうなると、遺伝子を戻す時は、かつての時間の記憶をマヒさせておく必要があるということだ。少なくとも、遺伝子が正常に働いて、時間の辻褄を合わせようとすると、玉手箱を開けた時のように、一気に年を取ってしまう。
では、年を取っても、死なないようにすればいいのではないか。命を長らえるための冷凍保存なのだから、ケースを開けた時、肉体はある程度老化するが、死なないようにすればいい、
となると、生き返った時には、不老長寿のような薬ができていれば。問題ないということになる。
ただ、不老不死というのは、
「開発してはいけないもの」
の中でも最たるものではないだろうか。
不老不死というと、昔の西遊記などの話に出てくるような、
「化け物のような連中でも、人間よりもはるかに長く生きているのにも関わらず、一番ほしいものは不老不死ということである」
という発想がある。
ただ、西遊記の中にでも、何千年、何万年と生きていて、生きることに疲れた妖怪だっていたりする。そんな連中には、不老不死というものはいらないものだと言えるのではなうか。
日本の昔話の中には、
「妖怪とは、元々死なないものだ」
という発想があるが、これを人間に置き換えて、妖怪が人間になりたいと考えているという小説があった場合、それは、
「妖怪は死なない。妖怪が人間と親しくなれば、自分以外の親しい人は皆死んでしまって、自分だけが生き続けなければいけないという後悔をいかに乗り越えるか?」
というのが、大きな問題ではないだろうか。
だから、死にたいと思った妖怪が人間に憧れ、人間になりたいと思うという話も何かの小説で見たことがあった。
だが、基本的に妖怪は、死なないことが宿命であり、そのことを深く考えないのが妖怪というものではないか。人間ほどまわりとのコミュニケーションが行き届いているわけではないし、感受性が強いわけでもない。
それを思うと、人間にとっての命と、妖怪にとっての命(そもそも、妖怪に自分たちの命という概念があるのかどうかも疑問だが)とは、どう違うというのか、納得がいく説明ができる人がいるのだろうか。
以前、妖怪の話の中で、足が根っこになっているのを見たことがあった。
妖怪は鏡を持っていて、やってくる人間にその鏡を見せると、妖怪が人間になって、足ができて、鏡を見た人間が妖怪になって。その場所に立津づけなければいけなくなるのだ。その場所に根が生えているのだから動くことができず。いつ現れるか分からない人間を待ち続け、うまく欺いて自分の代わりを務めさせないと、自分は年も取らずに死ぬこともなく、その場にいなければいけないというものだった。
この話を見た時、
「なんて怖い話なんだ」
と思った。
自分がその妖怪になった、あるいは、やってきた人間として、妖怪になってしまったと思うと、
「死んだ方がマシだ」
と感じるくらいだった。
何も起こるはずのないその場所で、何年、いや何百年という時間が掛かるかも知れないところに、じっとしていなければならないという思いは、地獄でしかないのだ。
これは尊厳死という問題とニアミスをしているかも知れない。
「回復し、意識を取り戻す可能性がほとんどない人間を、生きる屍として考えることもできず、感じることもできない状態。つまりは、意思表示ができないことで、気持ちがどうであっても、ただ生き続けさせるということは、その人の気持ちを無視していることになり、本当にいいのだろうか?」
という考えに行き着く。
結局は、生殺与奪に関わることであり、
「人間は、生まれることにも、死ぬことにも自由がない」
ということになるのではないだろうか。
生まれる時は、親が誰になるかということで、ある意味生まれた時から、差別があるのだ。
いくら、
「人間は生れながらにして平等だ」
などという綺麗ごとを並べたとしても、しょせんは、親によって変わるのだ。
もちろん、成長の過程で変わっていくことは往々にしてあるが、基本的に環境に変わりはないのだとすれば、ほとんどパターンは決まっていると言ってもいいのではないか。
つまりは、よく、
「結果がすべてだ」
と言われるが、その結果をもたらすのは、原因であり、経過なのだ。
途中のプロセスをかっ飛ばして、いきなり結論になることはない。季節だって、冬からいきなり夏が来ることはないだろう。その途中にあるものが当然のごとくに存在しての結果なのだからである。
人間は生れることに関しては不平等であるが、では、死ぬ時くらい自由であってもいいのではないかと思うが、死ぬことも自由では許されない。
「自殺というのは、自分に対しての殺人だ」
という考えから、自殺をした人は、殺人と同じで、問答無用で自殺いきだ。
と言われている。
そして、尊厳死に関与した医者や家族も、当然のように、殺人ということで地獄行きということになるだろう。
もし、自分の近親者に意識を取り戻す見込みのない人がいれば、自分だったらどうするだろう?
そんなことを普通は考えない。考えるとすれば、よほどのネガティブな思想の人か、あるいは、よほどの心配性かのどちらかだろう。
いや、心配性の人であれば、ここまでは考えないだろう。一番最初に恐怖を身体が感じることを心配性の人は感じないという本能を持っているからだ。
「死なない」
ということと、
「死ねない」
ということでは、言葉は似ているが、ニュアンスも、実際の意味もまったく違うということである。
ここでいうニュアンスというのは、感じ方という意味で、前者は不老不死のように、妖怪が手に入れたいと思っていることで、後者は、人間が、自分ではなくなれば、その瞬間を持って死を迎えるのが普通であるのに、無理やり生かされているという感覚ではないだろうか。
妖怪のように、人間から見ればただでさえ長寿なのに、さらに不老不死を求めるという考え。人間のように寿命が短いのに、死を迎える時は、当然のごとくに迎えたいという考え、実に矛盾していることのように感じる。
「百里の道は九十九里を半ばとす」