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蘇生の成功術

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「そこも分からないようなんです。でも、政府ではないと思います。もし政府なら、必死に情報が漏れないように国家権力を使うはずですが、大臣などが動いている気配はなさそうなんですよね」
 ということだった。
「とにかく、よく分かっていないということは確かなようだね。情報は流れていても、内情は完全に施錠してある。ということは、わざとその情報を流したという理屈は成り立つのではないかな?」
 と、山沖教授は言った。
「僕もそう思っています。わざと情報を流したとして、何がしたいんでしょうね?」
 と研究員が聞くと、
「この情報が漏れたのはうちだけなんだろうか? 他の研究室などには漏れていないんだろうか?」
 と山沖が聞くと、
「他には漏れていないと思います。漏れたところが多ければ多いほど、緘口令の意味はなくなりますからね」
 と研究員がいうと、
「だけど、最終的な目的はそこにあるのかも知れない。ただ、冷凍保存関係の研究をしているところがどれだけあるかだと思うんだけど、そのあたりはどうなんだい?」
「正直、冷凍保存に関しての研究を行っているところは私の知る限りではありません。冷凍保存というのは、最初の考えまではありえるんですが、研究を続けるにつれて、どんどん信憑性が薄くなってくるので、ほとんどのところは早い段階で断念しているようなんです」
「それはそうだろうな、だけど本当は、ある程度まで来ると、今度は信憑性のなさが下げ止まってきて、今度は上昇に転じるんだ。その時は、一度底辺を見ているので、上り方のカーブは結構険しいものとなって、そこから見出されるものは、かなりの研究結果だと思えるんだけどね」
 と、教授は一般論を言った後で、自論を言った。
 その自論は、結構な信憑性があり、他の人が言えば、あるいは他の人に聞かせれば、まるで戯言のように聞こえるかも知れない。あくまでも、山沖教授が河合研究室のメンバーに聞かせているということでの信憑性なのだった。
「これも、河合教授の遺伝子のようなものなのだろうか?」
 と山沖教授は考えていた。
 それにしても、この衝撃的なニュースが河合研究室に聞かせたいということであれば、それは河合研究室でも冷凍保存の研究をしているということを知っている誰かだということになる。今でこそ研究員に公開したが、少し前までは、山沖教授の頭の中と、河合教授の残したノートにあるだけだった。
「ところで君はどこまでの情報を知っているんだね?」
 と研究員に聞くと、
「私が聞いたところでは、遺伝子を調査しているところまでは聞きました。うちも遺伝子に関しては研究をしているので、きっとどこも一緒ではないかと思っていたんですが、やっぱりどこも研究はしているようですね」
 と言われた。
 確かに遺伝子を研究するという発想は、今に始まったことではないが、研究すればするほど、遺伝子の持っている複雑な構造が、蘇生に関してはうまく機能しないということが分かってきた。
 まず考えられるのは、自分の肉体に戻るということが難しいということだった。戻った時に記憶がリセットされるので、遺伝子が遺伝子としての働きをしないことになると、却って遺伝子の存在が邪魔になっているということになる。となると、邪魔になる遺伝子の研究をしても仕方がないのかといえば、そうでもない。本能という動物の能力の半分を司る機能は、遺伝子によって作られているとすれば、遺伝子抜きにして、蘇生は考えられない。
 ただ、そもそもどうして蘇生を考えたのかという起点になった考え方が、
「不治の病と言われるものに罹ってしまい、余命が宣告されて、後は死ぬのを待っているだけの患者に冷凍保存を施して、医療の発達で不治の病ではなくなった時に蘇生して、その後の人生を生きる」
 という考え方からだった。
 死ぬのを待っているだけの辛い時期を少しでもなくすることができればいい」
 という発想からであったが、考えれば考えるほど、
「本当にいいのか?」
 と思えてくる。
 その人の寿命を勝手に変えることになるのだ。生殺与奪を人間が決めていいのかということになる。
 死ぬはずだった人が死なないということは、老人が増えてくることになり、社会問題である、
「少子高齢化」
 を推し進めることになる。
 確かに個人的にはいいことなのかも知れないが、社会全体を見ると大きな問題だ。
 そもそも個人であってもいいことなのだろうか?
 まるで浦島太郎状態で、目覚めた時は、皆と死を取り、下手をすれば、自分よりも自分の子供の方が年上になっていたり、さらには、もう知っている人は、皆死んでいるかも知れないのだ。
 間違いなく、自分の知らない世界が飛び出してくるのだ。そして、
「蘇生させれば、目が覚めるのは間違いない」
 というだけで、眠っている間は、植物人間と同じではないか。
 植物人間との比較がいいのかどうか分からないが、その間、
「生きる屍である」
 ということには変わりはないだろう。
 しかも、蘇生しても、その間の記憶はまったくないのだ。
 科学が発展して、その人が生きていた記憶を架空ではあるが、作ることができても、他の人には、まったくその記憶がないのだから、記憶がない方がまだマシなのかも知れない。
 それだけを考えても、リスクはかなり高いように思う。確かに医療の発展までの間、冷凍保存で延命するというのは、まわりの家族からすれば、望ましいことかも知れないが、それはあくまでも、余命宣告された相手とどう接していいのか分からない、そして、相手は確実に死ぬのが分かっている状態という最悪の中での比較であって、もし、冷凍保存している間に、考え方が変わるかも知れない。
 もし、冷凍保存が認めれれば、こう言った利害関係者の心境の変化をどのように対応していけばいいのかという問題も大きなことである。
 仮に、冷凍保存をお願いした家族は近親者が、気が変わって、
「冷凍保存はいいので、今蘇生させて、決められた余命をまっとうさせたい」
 と考えた場合、どうなるというのだ。
 この問題は、
「安楽死」
 あるいは、
「尊厳死」
 の問題に関わってくるだろう。
 冷凍保存というのは、植物人間における生命維持装置と同じだと言えるだろう。生きているのだが、まったく何もできない状態で、中にいる間が意識がないのも同じである。
 冷凍保存を解くということは、余命が決まった相手を元に戻すということなので、直接手を下すわけではないが、それは生命維持装置の人工呼吸器を外してしまうというのと同じことである。
「安楽死が認められていないのだから、冷凍保存を辞めるのも、認めてはいけないのではないか?」
 という意見がある。
 尊厳死などと同じように、精神的な発想が強いのだろうが、あくまでも、植物人間になった人の尊厳しか認められていないということになる。
 尊厳死の問題は、前述にもあるが、少し認められているところもある。やはり、遺族が苦しむのであれば、尊厳死を認めるくらいの寛大さがなければ、
「法律というものが、まったく公平さに欠けるものだ」
 と言ってもいいのではないだろうか。
 それを考えていると、河合教授の顔が浮かんできた。
作品名:蘇生の成功術 作家名:森本晃次