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蘇生の成功術

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 さらにこの小説の中にはいろいろな教訓がある。どれもがどんでん返しにあって、二転三転したうえで、最後は戻っても本当によかったのかという戒めであり、結局は寿命というものが決まっていて、それを変えるということは人間に与えられていない権利だということである。
 そもそも、この考え方はどの宗教においても同じことであり、その結論に導くために、いくらかの葛藤が小説の中で描かれている。
 そういう意味では、宗教の世界も、しょせんは、人間が作り出した小説なのではないかと思えた。
 どの話も人間に都合よく描かれていて、神様が人間に行う禍も、結局は人間のためかも知れないという発想か、あるいは、神様が人間よりも人間らしいという発想である、
 前者の方は、聖書の発想ではないだろうか。戒め的な話にはなっているが、結局は浄化のためだったり、世の中をよくするための話であったり、基本的なところは、
「ノアの箱舟」
 であったり、
「ソドムの村」
 のような発想である。
 後者はギリシャ神話ではないだろうか。
 ギリシャ神話は、ゼウスを中心に、オリンポスの神々と人間の関係性を書いているものだ。
 あくまでも、神は人間の上にいて、それぞれ人間社会のような役割であったり、その存在がしっかりと明記されている。聖書の場合の神は、その名前が書かれていることはあまりない。神様という存在が人間とは完全に一線を画しているということであろう。だから、バベルの塔の話のように、神に弓を引くと、神がお怒りになるという、人間界からはまったく見えない世界として確立している、
 しかし、ギリシャ神話では、神と人間界との間に境はあるが、まったく見えないというわけではない。
 その証拠に、神と人間が結ばれたり、ゼウスが、他の神を使って人間に何かを送ったり、人間を滅ぼすために、疫病神のようなものを贈り込んだりする。
 しかも、オリンポスの神というのは、実に嫉妬深いもので、自分の愛する人が、人間の王様と契りを結んで子供ができたりすると、その王国を津波によって、一晩で滅亡させたり、その子供を海に流すというようなことをするのだった。
 神々の間でもこの世で言う浮気のようなものが横行していて、嫉妬から人間界に災いが及んだりしている。
 そもそも万能の神と言われるゼウスでさえ、他の女神たちを自分の女にしたりしているくらいなのだ。そういう意味で、浮気や嫉妬などという人間臭い状況は、神の方が大っぴらにやっているではないか。
 そういう意味で、この小説家は、宗教家というイメージを世間の人に与えながら、架空の宗教を作り出し、ただ、それを自分の小説に生かしているだけである。
 だから、彼は宗教家などでも何でもない。まわりにそう思わせることで小説を売ろうとする、
「宗教を使った売名行為」
 と言ってもいいだろう。
 さすがに彼の小説を読んでいる人にはそのことは分かっている。だが、彼の小説はあまりにも偏りがあるため、少数派しか読まない。それだけに、彼の小説を読まない大多数の人は、彼のことを宗教家だと思うのだった。
 だから、下手に攻撃されることはない。宗教団体が何か事件を起こした時は、さすがに誹謗中傷は避けられないが、それまでに彼の宗教は他の宗教とは違っているという伏線を敷いているので、長く注目を浴びることはなかった。
 逆にそのおかげで小説が売れることに繋がってくる。彼の小説を読んだ人は、彼への誹謗中傷は違うというのが分かるか、それとも、一度では理解できずに、読むことを辞めてしまって、それ以上、彼をいじることはしなくなるという効果もあった。どちらに転んでも、最終的に彼には害が及ぶことはなかった。
 それも、最初から計算ずくだったような気がする。
 特に、彼の昔からのファンは皆そう思っていて、ある意味、
「彼ほど、宗教団体というものを嫌っている人はいない」
 と言えるのではないだろうか。
 そんな彼の小説を読み返した山沖教授は、再度彼の小説を読み直したのだった。

           遺伝子の研究

 気になる作家の小説を読んでいると、同じ肉体によみがえることができるという話を書いていたが、もし、戻れるとすれば、火葬するまでである。骨になってしまうと、いくらなんでも戻ることはできない。今の法律では死亡診断されてから二十四時間は火葬してはいけないというものがある。
 なぜなら、蘇生の可能性がまったくないと思える時間までは、葬儀も火葬も行わないというのが、墓地、埋葬等に関する法律というもので決まっているからだ。
 つまり、二十四時間の間には、蘇生するかも知れないと思われているからで、ひょっとすると、昔、そういう事例があったのかも知れない。
 そういう意味で、二十四時間以内であれば、蘇生しても別に不思議はないということで、よく探偵小説などのトリックの伏線として、
「二度死ぬ死体」
 などというタイトルでドラマ化されたりしているではないか。
 要するに心停止してからでも、蘇生する可能性が無きにしも非ずということで、二十四時間であれば、生き返る可能性が秘められているのだった。
 しかし、二十四時間と言っても、結構あっという間のことである。現代における時間と、神の世界、あるいは死後の世界での時間経過がどのようなものなのか分からないが、この世での二十四時間は本当にあっという間のことだ。
 ただ、それも自分の肉体に魂が戻る場合のことであり、もし、二十四時間でダメな時は、他の遺体であれば、同じ人間として生まれ変わるわけではないが、生まれ変われるわけなので、これは、二十四時間を超えてしまっても、そのあとは、もういつでも関係のないことになる。極端な話、数年後でも同じことだ。
 そうなってしまうと、生まれ変わる意義もないだろう。
 そもそも、他人として生まれ変わった場合、生まれ変わった本人が、
「生まれ変わることができた」
 と自覚しているだろうか。
 しょせん違う人の肉体である。何の予備知識もないのだ。生まれ変わったとしても、結局、記憶を失っているという芝居でもしないと、おかしなことになる。それを思えば最初から、生まれ変わったという意識がないままの方がいいだろう。
 だが、その場合、生まれ変わっても何らメリットはないような気がする。それよりも、輪廻転生ではないが、再度赤ん坊から生まれ変わる方がいいではないか。
 生まれ変わる相手がいくつの人なのか分からないが、少なくとも寿命の十数年以上は生きてきているはずなので、その分の寿命が短いことになるのだ。
 そもそも、生まれてくる時が赤ん坊で、それ以前の記憶がまったくないわけである。何も分からないまま生まれてきて、その後の環境だけで生きていけるわけではない。人間としての最低限のものが備わっているから、生きていけるのだ。
 それはすべての動物が持っている本能という感覚、そして、親から生まれた時に受け継がれてきた遺伝子というものが、その人を人間として、キチンとした判断ができる高等動物として生きていくことができるのだ。
 身体の中の遺伝子というのは、親や先祖から受け継がれてきた本能だけではないと言われている。
作品名:蘇生の成功術 作家名:森本晃次