蘇生の成功術
小学生の頃から絵を描くのが好きで、イラストやデッサンなどをよく描いていたが、高校生になる頃には、研究の方に興味を持ち始めて、絵画はあまりしなくなった。
そもそも、研究員になったのも、絵画をしていて、絵画の基本が、バランスであることに気づいたからであった。
風景画などを書いていて、海や空のバランスであったり、人物画であれば、中心に顔のどこを持っていくか、あるいは色彩だってバランスである。
それに気が付いて、バランスの勉強をするようになった。
もちろん、絵画がうまくなることを前提に考えていることで、基本はあくまでも芸術だった。
しかし、そのうちに科学的なこと、物理学的なことに興味を持ち始めると、今度はそっちにのめり込んでいく。
絵の才能があるかどうかは分からなかったが、絵を描いていても、認められることもなければ、さらに奥深さを感じるだけだった。
しかし、科学や物理学は勉強をしているうちに、いろいろ分かってくることが多い。それを思うと、
「すぐに結果が見える学問が俺に向いているかも知れない」
と思うようになり、学問というものは、さらに一つのことが分かっても、さらに奥には別の課題が潜んでいる。
そうやって一つ一つ段階を踏んで先に進むということが、
「芸術よりも学問の方が俺に向いているのかも知れないな」
と感じたのだ。
しかし、この考えも、
「もし自分が絵画に興味を最初に持つことがなかったら、途中で学問に目をやることはなかった。これも、段階を踏んでいるという意味で、すべて自分にとっての学問のようになっているのかも知れない」
と考えるようになった。
そういう意味で、
「段階を踏む人生がいかに大切であるか?」
というエッセイのようなものを書いて刊行したが、あまり売れなかった。
「俺は、しょせん文章に関しては書くのは苦手なんだ」
と感じた。
あれだけ小説を高校大学時代に読んできたのに、書く文章は拙いものであり、いかに自分の文章力や、語彙力のなさが大きいかということを実感したのだ。
だが、それでも専門的な著書に関してはあまり関係なかった。
論文などは、散文というわけでもなく、専門用語を並べて、少しでも分かりやすく書ければそれでよかった。ただでさえ難しくなってしまう専門書なので、実際の書き方というものは目に見えないマニュアルのようなものがあって、その通りに書いているだけだった。
こちらは散文と違って、書きやすい、なぜなら散文というものは、読者に想像力を湧きたてさせ、想像力によって、文章が生かされるものなのだ。想像力というものが、実験結果に対してという専門書とは同じ想像力でも、その役割はまったく違っているのだった。
そんな自分の書斎の中にあるたくさんの本の中で、SF系、ミステリー系のものを少し読み返してみようと思った。ヒントが小説にあると感じたのだから、きっと記憶に残っていそうな小説にヒントがあると思った。
特に、山沖は同じジャンルでも、片っ端から流行りの本を読むわけではなく、好きになった作家の本をどんどん読んでいくということをしていた。
「小説家に偏りはあるが、それはそれで時代を反映していたのだ」
と、当時を振り返って考えていた。
一つ気になる小説を見つけた。SFホラーのような小説であるが、特徴的には、
「この作家は、宗教に偏ったような小説を書く」
と言われていたことだった。
彼の小説は、どこかキリスト教の教えに近いのだが、キリスト教徒から言わせれば、
「純粋なキリスト教ではない。あの人の考えは、キリスト教を模してはいるが、根本はまったく違っている」
と言われていた。
それ以外のイスラムであったり、ヒンズーとも違う。人によっては、
「ゾロアスターのようにも感じる」
と言われたが、いろいろ調べてみると、それも違っている。
「彼は宗教家ではなく小説家なのだから、あくまでも、同じ宗派である必要はない」
ということであった。
小説のネタにするのに宗教を取り扱っているのだから、架空の宗教団体を書いているので、どの宗教にも当てはまらないのは当たり前だ。下手にどこかの宗教を描いてしまうと、違う宗教団体からは、
「宣伝行為だ」
と言われ、その似ている宗教からは、
「勝手に許可なく題材に使った」
と言われかねない。
つまり、誰からも認められることはなく、酷い目にあうばかりである。
彼の描く架空の宗教によって、生き返る話しが描かれていた。
「魂が違っても、同じ肉体であれば、自分にとってその人は、自分の知っている人なのだ」
ということが描かれていて、ある人が雷に打たれて死んだとしよう。あまりにも理不尽なので、生き返らせてあげたいと思ったが、一度肉体から離れてしまうと、同じ肉体には帰ることができないというのだ。
しかし、神様がいうには、
「君が落雷で亡くなったそのまったく同じ瞬間に同じ落雷で死んだ人がいる。その人であれば生き返ることができる」
というものであった。
さらに神様から
「ただし、相手が先に君の肉体を他の神様によって使用されてしまうと君は生き返ることができない。どうしても生き返りたいと思うなら、迷っている時間はない」
と言われた。
どうしても生き返りたい主人公は、
「はい、分かりました。生き返ることにします」
と言って、生き返りを選択したのだ。
しかし、この神様は決して人間に対していい神様だというわけではない。むしろ人間に災いをもたらす神であり、主人公が生き返ろうとした相手は女性であり、完全に、神様の言葉に乗せられたのだ。
実際に、生き返る時、相手よりも先に肉体を占拠しないとダメだということもないし、そもそも、自分の肉体に戻ることができないわけでもない。
「神様のお告げ」
ということで完全に騙された形になった。
その男は、結局女性の身体に乗り移り、その後、女性として生きて行かなければならないのだが、悪い神様に引っかかったということを教えてくれる善意の神様もいて、その神様がいうには、
「自分の身体が、もう一人の女性に乗っ取られるか、あるいは、荼毘に付されるまえであれば、元の身体に戻ることができる。それは、ラベンダーの香りを探して、その匂いを嗅ぐことだ。しかし、今のあなたは、悪意のある神様によって、匂いの感覚を打ち消されているので、普通のラベンダーであれば、匂いを感じることはできない。だが、私があなたの行動範囲内に本物の匂いがするラベンダーを設けておくので、早く探して、元に戻るがいい」
と言われた。
男は必至にラベンダーを探して、元の肉体に戻ったのだが、実は、肉体自体はかなり傷んでいて、戻れたとしても、身体が半分やけどが残った形の酷い状態で生きなければいけない。
「あなたの寿命は伸ばせるだけ伸ばしても、ここまでだ」
と神様に言われた。
「果たして生き返ることができたのだが、それで本当によかったと言えるのだろうか?」
という話だった。
ラベンダーの匂いは、結構いくつかの小説に出てくる。やはり何か関係があるのかも知れない。