蘇生の成功術
何か理由があったのかも知れないが、一番売れていた頃の本のカバーに描かれていたおどろおどろしい絵がミステリーらしい恐怖を誘い、本の売れ行きにかなりの貢献度があったにも関わらず、復刻本ではその絵が描かれていないのだ。
タイトルの一文字を書道の先生のような人が描いただけの表紙は、昔の本を知っている人間には、あまりにも物足りなさすぎる、
そもそも、その出版社は、その作家の本を売り出すことで、大手出版社としての地位を揺るぎないものにしたはずで、その最大の功労者の本をそこまでの扱いをするというのは、その作家のファンのみならず、ミステリーファン全員に対して残念な思いをさせたと言ってもいいだろう。
確かに、今の時代は本の売れない時代である。製本して本屋に並べても売れない。ネットが普及してきて、ネットで買う人、さらにスマホが普及してくると、本をスマホで読むことで、重たい本を持ち歩く必要がない。
迷惑極まりない話ではあるが、歩きながら読むことだってできる。
しかし、考えてみればおかしなもので、スマホの画面を見ながら歩道などを歩いている人がいっぱいいるのに、なぜ、本を読みながら、歩いている人はいなかったのか?
「本を読みながら歩いていると危ないじゃない」
ときっというだろう。
だったら、スマホの画面を見ながら歩いているのと、どこが違うというのだ? それを思うと、何ともいえない気持ちにさせられる。
これはあくまでも想像でしかないが、本を見ながら歩いている人が一人のいなかったから、誰もしなかっただけで、スマホの場合はケイタイ電話の頃からの名残で、たぶんメールなどのちょっとしたものを見るくらいは、歩いていてもできるという発想から次第に歩きながら見るという文化が流行ってきたのではないだろうか。
つまり、
「横断歩道、皆で渡れば怖くない」
と、昔の漫才師が言っていたが、その言葉が示す通りの、
「集団意識のなせる業だ」
と言ってもいいだろう。
そうなのだ。集団意識がブームを呼び、前述のような小説がブームになったことがあった。
ミステリーのようで、SFのようで、そして実は恋愛小説ということで、細かい演出には目を瞑るという今のアニメになりそうなマンガの発想に近かったと言ってもいいのではないだろうか。
小説というのがどういうものか、小説が原作のドラマが多かった時代を思い起こすと、分かってくることも多いだろう。
「待てよ?」
と、ふと、山沖教授は感じた。
「当時読んだ小説の中に、何かのヒントが含まれているかも知れない」
と感じた。
それと同時に一つ思い出したことがあったのだが、これは本当に一部の人の間で一時期ウワサになったことがあったのだが、
「河合教授が研究とは別に、本を書いているというウワサがあった」
ということであった。
その本というのは、学者が学説を表したような本ではなく、普通の文庫本である。ミステリーやSFモノを書いていると聞いていたが、あれは本当だったのだろうか?
確かに、弁護士が法廷者を題材にした小説を書いていたりした時代もあった。今でこそ、お笑い芸人やアイドルが本を出すことが多い時代になったが、当時は珍しかった。しかも、一冊だけではなく、プロ顔負けで何十冊も出している人が多かったのだ。
今の出版界は、出版不況と言われて久しいが、実際に売れる小説、スポーツ界で言えば、
「即戦力」
などと言われる人たちが書くものでなければ本にすることはしない。
それが、いわゆる、
「芸能人であったり、犯罪者でなければ、小説を書いても、出版社は本にはしてくれない。もし素人が出版したいのであれば、有名出版社の新人賞や文学賞に応募して、入選以上に至らなければ、本を刊行することなどできない」
と言われたものだ。
芸能人や犯罪者というのは、いわゆる、
「名前が売れている」
ということである。
話題性がなければ、本は売れない。つまり、犯罪者であろうが、本が売れればそれでいいというモラルもへったくれもない考え方である。
昔からの本好きの人がそのことを聞くと、きっとショックで、嘆かわしいと思うだろう。
「出版業界もここまで来たか。恥知らずで情けない」
とかつての売れっ子作家も思っている人もいるのではないだろうか。
そんな状態だから、本も売れるはずもない。本が売れないから、またこの考えが加速してしまう。
このような状態がいわゆる、
「負のスパイラル」
というものであろう。
そんな出版業界なので、きっともうこのまま衰退するばかりではないだろうか。
ネットやスマホにばかり集中してしまうと、そのうち、本当に活字を読む人がいなくなり、音声による聞き語りによってしか、小説に触れることのない時代が近い将来やってきそうな気がするくらいだ。
もしそうなれば、もはや小説と言えるのだろうか?
ブームと言えば聞こえがいいが、昔の紙芝居や無声映画のように、衰退がそのまま消滅になってしまうようで、恐ろしい。
しかも、本という文化は誇大方受け継がれたものだ。それが消滅してしまう社会など、文化だと言えるだろうか。
これは書籍界にだけいえることではない。他の文化にしても同じことだ、一つの文化が消えてしまうと、他の文化までなし崩しに消えてしまうことになるだろう。
前述の本を見ながら歩く人はいないのに、スマホを見ながら歩く人が、一人でもいれば、どんどん増えてくるという状態に似ている。
そういう意味では、人間は自分たちの滅亡させることを無意識にやっていて、それが周田錦によるものから来るという発想がまったくないことが、
「破滅の足音がしているのに、誰も気付かない」
ということになるのではないか。
地球のすぐ隣に、まったく光を発しない星が近づいていて、気が付けば、地球上が異常に見舞われてしまい、訳が分からないうちに滅亡していたなどという小説も読んだことがあったが、まさにその通りになるのではないかと山沖は感じていた。
そんな時代が来てほしいわけではないが、心の底で、
「かつての新型伝染病の猛威は、ノアの箱舟や人類滅亡という危機に、警鐘を鳴らしていたのではないか?」
と言えるような気がした。
誰も何も知らずに、気が付けば滅亡していたという世界が、すぐそこまで迫っているのかも知れない。
山沖教授は、昔の本を取ってあり、家には書斎としてたくさんの本が置かれていた。気研究者になってからは、研究の本が主なので専門書が多いが、その間に文庫本のコーナーも結構あり、本棚一つすべて文庫本という感じだった、
文庫本を端の方に追いやらずに専門書の間に構えているというのは、文庫本をたまに読もうという意識があったからだ。教授になり、さらに室長となってしまうと、なかなか昔の文庫本に手を出すことはなかったが、最近ではこの部屋で本を読むというよりも、ステレオを設置して、ヘッドホンで音楽を聴きながら、瞑想に耽っている時間が多かったりしている。
山沖教授は、研究者でありながら、妄想の世界に入ることも好きである。そんな自分のことを、
「俺は科学者ではあるが、芸術家の端くれだと思っている」
と考えていた。