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蘇生の成功術

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 そもそも、科学者という括りがどこまでなのかというのも曖昧な気がする。医学に携わる者なのはどうなのかということである。薬学あたりは化学が関係しているので、科学者と言えるのだろうが、その当たりを考えた時、一つの思いが頭をよぎった。
「開発を伴う研究を行っている人たちを、科学者というのではないだろうか?」
 という考えが山沖教授の思いであった。
 つまり医学の中で開発に携わる人がいれば、その人は科学者と呼んでもいいという考えであるが、それは、目指す学問によって区別されているものを、さらにその中で分解することも可能だと言っているのであって、その考えは、多次元を想像させる。そう思うと、科学者という括りは、ある種別次元の発想であり、同じ研究員であっても、ランクの違いがそのまま、科学者という括りに入るか入らないかということを考えさせられると言ってもいいかも知れない。
 山沖教授は自分の考えが、
「ひょっとすると、自分と同じくらいの年の頃の河合教授と似ていたのではないだろうか?」
 という思いに至っているような気がしてきた。
 自分と同じ年齢くらいの河合教授というと、まだ自分が大学生の頃だったので、想像もつかないが、だからこそ、今自分が考えていることが、今までの自分であれば、この考えに至ることができたのかと思うと、それは河合教授と同じ環境で研究することで、似たような感覚になると考えると、非科学的かも知れないがありえないことではないような気がする。
「科学で解明できないことはありえないという考えがあるが、それこそが科学に対しての冒涜だ」
 と河合教授が以前言っていた言葉を思い出した。
 そもそも、山沖が河合研究室に入るきっかけになったのは、大学時代に河合教授がその言葉を口にしているのを聞いたからだった。
 河合教授の研究している学問は、化学なのか、物理学なのか、医学なのか、それとも心理学なのか分かりにくいところがあった。
 それだけに河合教授をそれまでほとんど意識したことがなかったのに、その言葉を聞いた時、一気に意識する気持ちが高揚してきて、身体に電流が走ったと言ってもいいかも知れない。
 それを思うと、河合教授に対してのインパクトをいまさらのように感じたようで、
「なぜ、今まで意識しなかったんだろう?」
 という思いにさせるくらいであった。
 山沖にとって、今では河合教授は師匠であるが、最初は、
「訳の分からない人」
 ということでの興味からだった。
 たった一言で衝撃を受けたこともさることながら、それからどんどん、
「この人のことをもっとよく知りたい」
 という思いが膨れ上がっていき、その思いにいかに答えればいいのか、考えあぐねていた。
 考えあぐねていたせいもあってか、絶えず考えていないと、すぐに思いが立ち切れてしまう。それだけ教授は異次元の世界の発想を持った人なのだ。
「集中しなければ、理解することができない」
 と思っただけで、別世界に創造された教授の世界に入り込むことは、怖いという思いもあるが、一旦入りこんでしまうと、抜けたくないという思いも同時に存在していて、抜けることも恐怖なのだという矛盾した考えが浮かんでくるのであった。
「先代の河合教授って、どんな人だったんですか?」
 と、教授を知らない若い研究員に聞かれると、
「一言では言い表せない人だと言えるんだけど、一言で人の心を打つ力がある人だと言ってもいいのではないかな?」
 というと、研究員も分かったようで、
「山沖教授も、教授の一言にやられた口ですか?」
 と聞かれると、思わずにっこりと笑って、
「そういうことだよ」
 と答えることで、その時に聞かされた教授の言葉を初めて研究員に聞かせることができた。
 これは聞かせるタイミングとしては最高のタイミングで、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりであった。
 ただ、河合教授というのは、
「さすが研究者」
 という皮肉の言葉が似合う人でもあった。
 絶えず皮肉の籠った言葉をいう人で、もっともその中に本音が混じっていることで、山沖の心を打つことができたのだが、山沖としては、
「自分以外に、そんな教授の気持ちを察することができる人はいないだろう」
 という自負があったのも事実で、この思いがあるからこそ、将来は自分も河合教授と同じ、科学者としての道を歩めるのだろうと思うのだった。
 だが、これはあくまでも科学者という意味であって、人間としては決して褒められたものではない。その思いを危惧している時点で、まだまだ自分が教授の域にまで達していないことは分かったが、逆に、
「今だったら、まだ元の世界に戻れることができる」
 という、境界線にいることも分かっていた。
「過去に戻りたいという思いが今の自分にあるのだろうか?」
 とも考えてみた。
 確かに昔の自分のような研究者として、第一線にいることが開発の醍醐味だと思っていた時期があった。そのうちに、自分が第一線から離れて、それを監督するという、まるで中間管理職になってからというもの、ずっと疑問に思っていた。
「俺は、このままここにいていいのだろうか?」
 という思いであった。
 そのうちに企画するようになって、疑問と一緒に、企画することに対して新たな楽しみが浮かんできたのだが、それが、最初の頃の第一線とは違った感覚であると分かっていたことから、疑問が消えることがないということだったのだろうか。
 そのうちに、各省庁と折衝をするようになると、自分が入った頃の河合教授に自分がダブっているように感じ、
「俺は、河合教授においついたということかな?」
 と考えたが、そもそもタイプがまったく違うのに、追いついたという話は次元が違っていることだったはずだ。
 それも分かっていると思っていたのに、気持ちはいつの間にか比較している自分がいて、どこか情けない気分になっているのであった。
 今回の研究は、研究員とは今まで以上に結界を設けなければいけないと思ったのも、河合教授のように考えたからであった。
 自分が入った頃の河合教授には、若手を寄せ付けないオーラがあった。最初はそれを、
「舐められないようにするためだろう」
 と勝手に思い込んでいたが、そんな普通の感覚ではなかったのだ。
 あくまでも研究に対して真摯に向き合っていることで、企画者と研究員の間に結界を作り、そこで研究員が変なわだかまりを持つこともなく、思う存分研究員としての発想を持つことができると思ったのだろう。
 研究員にとって、発想はあまり関係ないから、研究員と企画者の中に結界を作っていると思っていたがそうではなかった。
 元々研究員の時は、ただ、結界で見えなかったので、見られては困る何かがあると思っていたが、自分が企画者になると、
「若手がわだかまりを持たずにできるようになることを望むから、結界が存在するのだ」
 と考えていたが、次第にそうではなく、
「若手の研究員であっても、発想が必要だということで、結界を設けているんだ」
 と考えるようになったのは、自分が若手に気を遣っているわけではないということに気づいたからだった。
 むしろ、今の自分もまだ若手だという意識があった。そして、
作品名:蘇生の成功術 作家名:森本晃次