蘇生の成功術
ミステリーなどであるかも知れないが、失踪者が、本来であれば、法定相続人である自分に、遺産を残さないなどという遺書を書こうとしているという話を訊いて、これではまずいということで、殺害に至り、死体が発見されにくいように、例えば、身体をバラバラにして溶かしてしまうとか、身元が分からないようにしてから、自殺の名所と呼ばれる樹海の中だったり、死体が上がらないと言われる飛び降り自殺の名所から突き落とすなどして、死体自体が上がらないようにする工作をした上で、失踪届を出すというものもあったりする。
しかし、実際にはなかなか難しいだろう。警察は当然事件に巻き込まれたという捜査をするはずなので、動機が一番ある相続人や近親者を疑うはずなので、その行動やアリバイは厳しく見られるはずだ。
死体が上がらない努力をしても、行動に怪しいものがあれば、すぐに足がつくだろう。
死体をバラバラにして溶かすのであれば、バラバラにするにも溶かすにも専用の道具が必要だ。当然購入することになるのだが、警察はそれくらいのことはすぐに調べられるに違いない。
死体が上がらない場所に死体を処分に行ったとしても、そんな近くにはないはずなので、どうしても、アリバイのない瞬間が一日二日とあるはずだ。そうなると警察も足取りを追うだろうし、その日のことについて、かなり追及が激しいはずである。よほどのアリバイを作っておかなければならず、そこから足がつくということも多いはずだ。それを考えると、警察が関与を始めた時点で、最初からいくつものカモフラージュの方法を考えておかなければ、太刀打ちはできない。
表だけを取り繕っても、アリバイなどの後ろがしっかりしていないと、どこで足がつくか分からない。日本の警察は優秀だと昔から言われているので、警察の捜査の裏をかくくらいの気持ちでいなければ、犯罪など簡単にできるものではない。
それこそ、
「事実は小説よりも奇なり」
というところまで考えていて、やっと対等に警察と渡り合えるというものとなるのではないだろうか。
そもそも、犯罪に関してはプロの警察を相手に、こっちは初めて犯罪を犯そうというのだから、最初から勝負は見えている状態なのではないだろうか。
よほど切羽詰まった状態でない限り、中途半端な気持ちでは、太刀打ちできるはずもない。しかも、一人で犯行に及ぼうなどというのは、それこそ自殺行為と言えるのではないだろうか。
それを思うと、失踪宣告が出る七年は、犯人にとって果てしなく長い七年となるだろう。感覚がマヒしてきているかも知れないし、
「こんなことなら、しなければよかった」
とまで考えているかも知れない。
そう考えると、身元不明者というのは結構難しいところがある。何かの犯罪が絡んでいることも考えられるからだ。
では、無縁仏の場合はどうであろうか?
無縁仏であれば、すでに本人確認がなされていて、そのうえで、
「この人には、縁者はいない」
ということが確定しているわけなので、犯罪が絡んでいる可能性はかなり低くなる。
もし絡んでいるとすれば、死体が発見された時、変死体であれば、行政解剖に回すのが義務なので、解剖の結果で事件性の有無は大体分かる。そこで殺害されたわけではないということが分かると、ほぼ事件性というのは考えないだろう。
ここで事件性を疑うのであれば、老衰で死んだ人であっても、死を迎えた人すべてを疑ってみるというレベルの話になるわけで、これほど信憑性のない話もあったものではないと言えるであろう。
そういう意味では、無縁仏というのを実験台に遣うというのはありかも知れない。
しかし、これはあくまでも、現在生きている人との関係性、つまりは法律上の不具合という観点からであり、倫理的、あるいは、モラルの問題としては別問題であった。
ここで初めて、それらの問題が出てくるということになる。
行方不明者であれば、モラル、倫理を考えるまでもなく、法律上、利害関係者との問題で無理ではないかと思われた。しかし、無縁仏であれば、その問題はクリアすることで、やっと次の段階に進むことができるのだが、そこで立ちはだかってくるのは、先般の問題となっていた、モラル、倫理の問題となるのだ。
「いったん死んだ人間を、蘇生させるというのは、どういうことなのか?」
とまず、宗教関係が問題にするだろう。
「人間には、それぞれ寿命があって、生殺与奪の権利はそもそも人間にはないので、それを司ることのできる神への冒涜になる」
という理論を振りかざしてくるに違いない。
確かに、その考えは、宗教団体の人間でなくても、持っている人はいるかもしれない。その思いが、将来の、
「宗教予備軍」
として、息吹いているのかも知れないと思うと、少し怖い気もするが、逆にその気持ちも分からないでもないと感じる場合もある。
ただ、教授の側の考え方として、
「宗教の考え方としては、人が死んだら、魂は肉体から離れて、彷徨っていると考えているんだよな。そして、魂が残っているからこそ、新たに生まれ変わることができるということであり、生まれ変わるまでの間、極楽であったり、地獄であったりに行くというのではないか? もっとも、地獄に落ちた人が生まれ変わるかどうか分からないし、生まれ変わるとしても、人間なのかどうかは、宗教によって違うかも知れない」
と思っていた。
さらに一歩踏み込むと、
「死んだ時、つまり、肉体から魂が離れた時の肉体は、文字通りの屍であって、もう、元の人ではない。基本的には火葬にするわけで、土葬にしたとしても、自然に腐って、元が分からなくなるような白骨化してしまう。だからこそ、死んだ瞬間の肉体は、もう元の人のものではないと言えるのではないか?」
と考えた。
もちろん、宗教によって違うということはあるが、ほとんどの考え方としてはそうではないか。死んだ人間の肉体は、もうすでにその人ではないのだ。他の人の命を吹き込んでしまえば、同じ顔や肉体であっても、魂の部分が別人なのだから、生き返ったとしても、同じ人間ではない。そういう意味では、倫理、モラルとしても、かなりの部分で許容されるかも知れない。
ただ、人間には、その人の身体を忘れられない人もいるかも知れない。
「魂が違っても、同じ肉体であれば、自分にとってその人は、自分の知っている人なのだ」
という考えを持つ人もいるかも知れない、
いるかどうか分からないレベルの少数派であるが、山沖教授は、どうしてもこの考えを避けて通ることのできない問題だと思うようになっていた。
科学者である自分は、基本的に、多数派を尊重するという考えが結構強かった。これは民主主義の、多数決という考え方とは違うものであり、その考えを自分でいかに納得させるかということが、自分の中での科学者としてのステップアップに繋がっていると思っていた。
「科学者というのは、妥協してはいけないが、理論的に考えるならば、多数派を推すのは当たり前のことである」
と思っていた。
ただ、この山沖教授の科学者というものへの考え方が、他の科学者と同じかどうかというのも怪しいものだ。