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蘇生の成功術

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 そうなるとどうなるのかというと、
「国民が分裂してしまう可能性がある」
 ということである。
 いろいろな決定に対して賛成派と反対派がいがみ合い。本当であれば、一致団結して立ち向かわなければいけない中で、それ以前の問題が勃発し、政府ではどうにもならない状態になるのだ。
 元々は政府が引き起こした混乱なので、政府が収束させるのが筋なのだが、もう、国民は政府に騙されないという思いが強いので、本当にいうことを聞かなくなってきた。
 それでも、暴動などがおきないのは、日本という国が「平和ボケ」をしていたからで、それが今まではよかった方に転んでいたのだろうが、ここから先はどうなることか誰も予想がつくはずもなかった。
 日本という国が、こんなになってしまったのも、一党独裁が続いたからであるが、それはあくまでも、その政党が良かったからではなく、他があまりにも情けなかったからだ。
 本当に野党と呼ばれる連中は、十把一絡げ、全部合わせても、議席の半数もいかないのだから、情けないとしかいいようがない。
 科学者や専門家が、
「政府は信用できない」
 と思うのも当たり前のことであり、本当であれば、もっと昔から分かっていたことなのであろうが、決定的になったのは、この時だったに違いない。
 分科会も元々政府のイエスマンばかりを集めたはずなのに、さすがに途中から、良心の呵責に耐えられないと思ったのか、政府に反論する人も増えてきた。分科会会長自ら政府にモノ申しているのに、政府高官は、それをまるで戯言を言っているかのように、批判するのだから、さらに国民感情に火をつけたと言ってもいい。
 政府の何が悪いのかというと、
「とにかく国民に納得のいく説明をしない」
 これがすべてであった。
 科学者は政府のいうことをほぼ聞かなくなったが、それでも、予算の問題や、今まで専門的に見てくれていた担当省庁には、まだ信頼性があった、
 だから、ほとんどの大学では、厚生労働省と文部科学省の依頼による、
「感染症以外の重大病気の治療薬の開発」
 という部門に、それぞれの省も、真剣に向き合い、専門家による革命を起こそうと思っているのかも知れない。
 専門家としては、
「政府でも省庁によってこんなに違うんだ」
 と思ったようだが、実際には、
「政府の一部のトップ連中がバカなだけ」
 というだけのことであった。
 ただ、それが問題なのだ。やつらは、自分たちの保身しか考えていない。しかもトップまで上り詰めてしまったので、野望はもうない。いかに政権を長く持ち続けられるかということで、相撲界でいえば、横綱のようなものだ。
 失脚すれば、降格というのはない。引退しかないのだ。
 総理大臣を責任を取って辞めたくせに、国会議員としては残っている輩もいるが、何を考えているのかと、国民は感じることだろう。
 冷凍保存よりも、まずは蘇生の方法というが、蘇生させられるくらいであれば、
「何もこのような苦労はない」
 と国民は思っているだろう。
 しかし、蘇生させるということは、非常にモラルという意味で大きな問題であったのだ。
 確かに死にゆく人の命を預かっている医者とすれば、最後まであきらめることなく組成を試みるというのが、医者のモラルなのだろう。
 死にゆく人を目の前に、指をくわえて死ぬのを待っている医者がどこにいるというのか、家族も必死に組成を願い、何とかしようとする。しかし例外的に、蘇生がうまくいっても、そのまま植物状態になってしまう人だっているのだ。
 その場合、誰が、患者の生命維持に掛かる莫大なお金を負担するというのだろう。生き返らせた病院が責任を持つわけではない。その負担は家族にしかいかないのだ、
 だからと言って、安楽死が認められているわけではない。
 ただ、尊厳死という意味合いから、患者が以前から、
「意識がなくなって、生命維持に至るようになった場合、生命維持を拒否する」
 という遺言がある場合で、さらに、
「客観的に見て。回復の見込みがまったくなく、後は死ぬのを待つばかりだということがわかっている場合」
 などであれば、尊厳死を認めるという判例もあったりするが、さすがに、その状況も細かく捜査されて、その間、医者としても生きた心地がしなくなってしまうことだってあるだろう。
 下手をすると、裁判で無罪となっても、これがトラウマとなって、二度と医者に戻れなくなるというリスクもあるのだ。そこまでできる医者がどれだけいるというのか、尊厳死を認めないというのは、宗教的な意味合いが濃いのではないかと思うが、やはりキリスト教などでは、自殺も否定しているので、尊厳死も否定することになるだろう。死んで天国に行けたとしても、この世で待っているのが地獄であれば、それが何の慰めになるというのか、もし、数年後に生き返ったとしても、その間の記憶も何もないわけなので、社会復帰できるかどうかも難しい。尊厳死できずに蘇生できたとして、それが本当によかったと言えるのかどうか、それが大きな問題なのだ。
 つまりは、宗教において、延命というのは、
「神が決めた寿命を変えることになるのはいかがなものか?」
 ということになるのだ
 蘇生させて植物状態になれば、
「寿命に任せないからそういうことになる」
 と宗教は思うだろう。
 それだけに、蘇生させた命を、今度は打ち消すことは許されないという考えでもある。
 それはあくまで現実を考えない、
「一人の人間の尊厳」
 だけを見ていることになるのだ。
「皆が不幸になることが分かっているのに、それでもよくなる見込みのない人を生きながらセルというのか?」
 というのが、人間界のモラルではないだろうか。
 人間の生死というのは、人間が決めることはできない。つまりは、
「生殺与奪の権利は、人間にはない」
 ということになるのだ。
 そもそも、人間の歴史は戦争の歴史。生きること自体が難しかった時代では、
「あの世での極楽浄土」
 を夢見たのだろう。
 だから、そのために、今の世をいかに生きるかというのが宗教の考えであり、人間が本来なら人の生き死にを決定してはいけないという観点から、戦争もいけないはずなのに、なぜこんなことになっているのか、そこを宗教の教えが、うまくつくことで信者を爆発的に増やしてきたのだろう。
 しかし、戦場では戦争という名のもとに、人がどんどん死んでいき、人が死ぬことに対して感覚がマヒしてくるのではないかと思えるのに、一人の人間の生死に関してここまで厳密であるというのは、どこか矛盾しているように思うのだが、やはり宗教といえども、この世界で起こることを止めることもできないのだろう。何しろ戦争が宗教によることが原因であれば、止めることなどできるわけもない。何とも矛盾した中で、世界が時系列で進んでいく。
「本当にこの時系列に矛盾はないだろうか?」
 という考え方が、
「次の瞬間には、無限の可能性が潜んでいる」
 というパラレルワールドの考え方があるのだが、これは宗教という理念と、科学的研究によるものとの理論上の葛藤ではないかと思えるのだった。
 さらに、寿命という考え方は、宗教の考えの中にある、
作品名:蘇生の成功術 作家名:森本晃次