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クラゲとコウモリ

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 緊急事態になればなるほど、自分のやり方に自信を持っていれば、それを貫こうとする。マウントを取りたいという思いが強い人もいるだろうが、そうでもないと分かっていても、いざとなると、相手がマウントを取るがために意地を張っていると思うと、こっちも一歩も引き下がれない。
 そうなってしまうと、どうしようもなくなる。まわりも、どちらかに肩入れしそうになると、話がこじれるし、かと言って、
「まあまあ」
 と、中途半端にしか対応できないと、喧嘩がさらにひどくなる。
 それこそ、
「コウモリのようだ」
 と思われてしまったら、自分が損をする。
「何で、喧嘩の仲裁に入って、自分がまわりから卑怯だと思われなければならないのか?」
 と思ってしまうと、仲裁に入ることを誰もしなくなってしまう。
 こうなると、お互いに疲れて言い争いもできないくらいになるまで待つしかない。
 本人たちはそれでいいかも知れないが、まわりの人間は余計に気を遣って、疲れが激しくなるだろう。そうなると、もう話にならなくなってしまい、
「もう、二度とキャンプにはいかない」
 と思うだろう。
 この連中とだけいかないだけではない。キャンプ自体に嫌気がさして、誘われても行こうとは思わないに違いない。
「ただでさえ、いろいろ面倒臭いことを、友達が一緒だからということで参加しているのに、これじゃあ、元も子もない。本末転倒だ」
 と思うに違いない。
 孤独を楽しむのはキャンプだけではないが、他のソロ活は最近では充実してきたこともあって、
「人間の感情に、社会の体制がやっと追いついてきたのかということになるのだろうか?」
 と考えていた。
 何しろ、最初は友達を増やし、孤独を少しでも感じないようにしようと思っていたのに、気が付けば、自分だけ取り残されてしまって、結局孤独を味わうことになってしまった。だったら、孤独を楽しむようにすればいいのではないか。
 と単純に考えたのだが、最近の傾向としてのソロ活が多いというのは、同じような感覚の人が多くなったからなのか、それとも、一人で楽しむことが孤独とは違うということに気づいたからなのか分からない。
 ただ、一人というのが、孤独に結び付けてしまったことが問題なのかも知れない。
「一人というのは、孤独ではなく、孤立というべきではないだろうか?」
 と考えてみたのだが、孤立というのは、その状況をそのまま表現しただけで、孤独というように、感情が入り込んだものではない。
 それだけに、言葉として当て嵌めるなら、孤独ではなく、孤立になるのであろう。
 自分のことをまわりから「コウモリ」と言われていることに、違和感はあるが、だからと言って、言われたくないというほどでもない。もし、本当にそう思われているのであれば、自分が孤独になることで、嫌な感じではなくなる。
 コウモリと言われることで、
「あいつは、どうせ日和見的なやつなんだ」
 と思われていた方が、一人になった時、却って自由な気がする。
 下手に信用されたり、期待されていると、余計なことはできないが、これも実はうまくこちらを利用するというだけのつもりであれば、これほど嫌なことはない。
 それだけ、
「人間というのは、心の底では何を考えているのか分からない」
 と、ざっくりとした言い方ではあるが、たいていのことは、この言葉で片づけられそうな気がする。
 では、コウモリに対して、孤独は自由なのだろうか? 寂しさなのだろうか?
 正直、コウモリの生態系はどのようになっているのか分からないので、物語やイメージから想像するしかないのだが、
「自由であってほしい」
 と思っている。
 イソップ寓話の中では、卑怯者のコウモリは、まわりから嫌われて、暗い洞窟で人知れず暮らすことを余儀なくされたということであるが、元をただせば、自分の身体の特徴を利用して、あっちについたりこっちについたりして、後でひんしゅくを買ったわけだが、元々、鳥でもなければ、獣でもないという特殊な身体を持っていることから、仲間外れになりたくないという思いがあったのかどうかは分からないが、少なくとも、生きるためのやむおえないことだったのではないかと思えるのだ。
 そんなコウモリを悪者にして、コウモリが暗い場所でひっそりと暮らすようになったということになっているが、逆の見方もできるのではないだろうか。
 まず前提として、
「コウモリというのは、獣のようで獣ではない、鳥のようで鳥ではないという性質を持っている」
 そして、次に、
「コウモリはいつも暗闇で他の動物と接することなく、暮らしている。しかも、暗闇の中にいることで目が見えず、超音波を使って、障害物にぶつからないようにしている」
 ということを頭に入れて考えれば、
「前者をプロローグとして、後者をエピローグとする物語を考えたとすれば、それがこの話に繋がったのではないか?」
 と考えれば、出来上がるストーリーは大体、卑怯なコウモリの話になるというものだ。
 あとは、
「ドラキュラ伝説」
 などの物語などで見られるのは吸血性である。
 吸血動物というと、どちらかというと、蚊であったり、シラミ、ダニなどの昆虫や、ヒルなどの沼地に生息しているものが代表的な吸血動物である。
 実際に、コウモリの中には吸血性のコウモリもいるが、ふつうは虫を食べたり、花の蜜を吸ったりするものであるが、限られた種類だけが吸血する。
 昆虫やヒルなどの化身だと、話としては少し吸血性が弱いところがある、特に昆虫は吸血をしたからと言って、人間が死んでしまうようなこともなく、吸血動物が人間に化けているという発想には、かなり無理がある。
 そういう意味で一番ふさわしいのはコウモリだといえよう、ただし、コウモリは吸血性はあるが、人を狙って攻撃するわけではない。そういう意味では、吸血鬼「ドラキュラ」の話は、かなり盛られていると言ってもいいだろう。
 そもそも、人間の血を吸う理由としては、食用としての生活のために吸血するもの、さらに家などの場合は、吸血にはれっきとした理由があるのだ。
 血を吸う蚊というのは、実は産卵前のメスの蚊だけである。つまり、蚊が人の血を吸うというのは、産卵するためのエネルギーを身体に蓄えるためだということである。このことを知っている人は意外と少ないのではないだろうか。
 ただ、吸血鬼の話は、相手がコウモリというある意味。よく分からない動物だからこそ、いろいろフィクションが作られやすくなる。人間のドラキュラ男爵であったり、話のように、なぜ若い女性の生き血ばかりを吸うのかということは、よく分からない。物語の中ではそれなりに理由があるのかも知れないが、それを果たして、現代の日本人が理解できるものなのかどうか疑問である。
 さらに、話は膨張していく。
 吸血鬼に血を吸われた人間も吸血鬼になり、どんどんとねずみ算式に、吸血鬼が増えていくという発想だ。
 どこからこんな発想が生まれてきたのかは分からないが、元々、その地方に伝わっている何かの都市伝説の可能性もある。
 つまり、都市伝説をいろいろ組み合わせて。ホラー小説に組み立てたと考えると、理解できるところもあるだろう。
作品名:クラゲとコウモリ 作家名:森本晃次