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クラゲとコウモリ

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 元々、吸血鬼ドラキュラという小説は、ルーマニアという国出身のドラキュラの話ということになっている。さらに、限定的な年としてトランシルバニアというところに居城があるということだが、この都市の名前を聞いたことがある人は結構いるのではないかと思えた。
 吸血性がある蚊はメスが産卵のために血を吸うのに比べて、ドラキュラ伯爵が吸うのは若い女というのも、何か皮肉めいたものが感じられる。

            モノを捨てられない

 綾香にはもうひとつ性格的に、まわりの人と違うところがあった。
 それは、
「モノを捨てられない」
 という性格だった。
 子供の頃から、ルーズなところがあり、整理整頓ができないことで、よく親から叱られたりしていたが、その影響もあってか、なかなかモノが捨てられなくなってしまった。
 モノを捨ててしまうことで、大切なものだったりするのも構わずに捨ててしまうことが怖い。だからゴミも大切なものも一緒くたにしてしまって、捨てられずにいるから、モノだけが増えてしまう。
 本当なら、最初から選別しておけばよかったのに、それをしていなかったことで招いた自業自得なのだが、それも、親から叱られた記憶が強く、叱られたことで、余計に意固地になり、いうことを聞かないようになったのだった。
 実に感嘆な算数の数式ではないか。
 片づけをしないから、ゴミなのか大切なものなのかも分からず、山積みにしてしまう。片づけなければならないのだが、面倒くさいという意識から、一緒くたにして捨てようとする。
 しかし、その中に大切なものがあるから、捨てることができない。だから、さらにモノが山積みになってしまう。
 この繰り返しだった。
 山積みになる前に整理できていれば、問題なかったのだろうが、それができなかったことで大切なものが含まれたゴミを整理することができない。
「必要になった時に探せばいいだけで、捨ててしまえば、探すこともできない」
 という考えが頭の中にあった。要するに、掃除の仕方が分からないのだ。
 そんな考えの人は他にもたくさんいるはずだ。下手をすると、
「部屋が汚いくらい、大切なものを捨ててしまうよりマシだ」
 と考える。
 しかし、整理整頓が得意な人は、
「散らかっている部屋にいるから、何もできないんだ。部屋を見れば、その人の頭の中が見えるようだ、部屋の光景がそのまま頭の中だからな」
 というのであろう。
 理屈は確かに分かっているのだが、一旦、こうなってしまうと、なかなかそうもいかない。
「まずはいらないものをどんどん捨てていけばいい」
 というが、それができるくらいなら、こんな苦労はしないというものだ。
 そもそも、性格的に叱られると委縮してしまう人間に対して、強く叱るというのは、二つのマイナス面を呼んでしまう。
 一つは、さらに委縮してしまって、何をしていいのか考える以前に、身体が動かないという症状だ。これが一番多く、一般的なのだろうが、少数派であるかも知れないが、決して少なくないだろうと思うのが、叱られたことで、余計に反発し、決して相手のいうことなど訊かないと自分にいい聞かせる人であった。
 その人は結果的には委縮しているのだろうが、それを知られるのが嫌で意地を張っていると言ってもいい。だが、それをまた否定しようとすると、さらに意固地になるのだから始末に悪い。
「押してもダメなら引いてみな」
 という言葉があるがまさにその通り、叱ってもダメなら、なだめすかしたり、いいところを集中的に褒めるというのも手ではないか。
「おだてられると力を発揮するという人がいるが、それは本当の力ではない」
 という人もいる。
 それも当然の考えではあると思うが、人は理屈だけでは動かない。おだてられて、力を発揮するのであれば、それが本当の力でなくても、いいと思うのだ。そのうちに、その力が本当の力になるかも知れないし、それ以上に、本当ではない力が、そのまま本当の力にとって代わるかも知れない。要するに、何がその人の力なのだと、誰に分かるというのか、力として発揮されたものが、まわりから見て力なのだとすれば、それは本当の力ではないと誰が言えるというのか、そのことを、綾香は考えるようになっていたのだ。
 都合のいい考えなのかも知れないが、力だけが正義のような考えは、危険であると言われているではないか、まるで昭和の根性論のような発想は、本当に化石と言ってもいいだろう。
「古き良き時代」
 と言われるが、それはその時代のすべてを表しているわけではないのだろう。
 実際に、親からはよくそういう言葉を言われた。しかし、中学時代の先生の一人に、
「おだてられて力を発揮できるんだったら、それでいいじゃない。何をしたって力を発揮できない人だっているんだから、それを思えばマシなのよ。何もそんなに高みを目指す必要なんてない。無理をしても、決してあすなろは、ヒノキにはなれないんだからね」
 と言っていた。
 確かにそうだと思った。テレビやマンガの影響が大きいから、どうしても、何でもできてしまうような感情を抱かされるが、よくよく考えると、誰もがすべて何でもできるわけではない。学校の教育でも、
「何か一つ秀でたことがあれば、それでいい」
 という先生もいて、その答えを先生が言った時の質問は、
「どうして、こんなにいっぱいの科目を勉強しなければいけないんだ」
 と言った生徒がいたからだ。
 先生の答えを綾香なりに想像した時、たぶん先生は、
「たくさんのことを勉強して平均的に何でもできるようにならないといけない」
 というのだろうと思っていたが、違っていた。
「たくさん勉強していく中で、どれが自分に合っているかを探すためじゃないかな? それにね、いろいろなことを勉強しているので、どれも関連性がないと思うかも知れないけど、勉強すればするほど、それらの学問がどこかで繋がっていることが分かってくるものなんだ。それが分かってくると、自分の目指したいものが見えてくるんじゃないかって先生は思うんだよ」
 と言っていた。
 なるほど、これも確かにその通りであった。一つのことに特化するのは大切なことだと思うが、特化することのまわりには、いくつもの派生部分がくっついている。その部分を理解しようとしなければ、本質が見えてくることもなく、本当に自分に合っているものなのかどうかすら分からないまま、結局中途半端になるのではないかと思うようになったのだ。
 綾香は、大学に入ってから友達も増えたが、モテていたこともあってか、かなり気分は女王様のようになっていた。
 そんな綾香を見かねて注意を促してくれる友達もいたが、綾香は利く耳を持たななかった。
 大学に入ってから友達になった人は、高校時代からも綾香がモテていたと思っているかも知れないが、高校時代までは本当に目立たない女の子だったのだ。
 大学に入って変わったのだが、そんなに変わったというわけでもない、髪型を少し変えて、制服からワンピースなど少しお嬢様風の服を着るようになると、一気にそのかわいらしさが開花したのだった。
 まるでアイドルのような感じだった。
作品名:クラゲとコウモリ 作家名:森本晃次