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クラゲとコウモリ

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 コウモリというものがそういう動物なので、いかにも自分があだ名にあった性格なのだという思いに至るのだが、そこまで分かっているにも関わらず、自分ではどうすることもできないのが腹立たしかった。
 そんなコウモリに対して、どんな人が合うのかと考えてみると、想像もつかなかった。何しろ、都合のいい方に寄生するような形でしか仲良くなれないということが分かっているので、どうしても、相手に合わせてしまう、そうなると、鳥と獣のどちらも友達がいたとして、それぞれで喧嘩になると、どちらにつくということができずに、また中途半端な位置で様子見をするしかない。
「優勢な方につく」
 というのも、うまい立ち回りなのだろうが、どちらにも友達がいれば、必ず欺いていることになるということを、忘れてしまっているのだろう。
 いくら自分が友達を失いたくないとはいえ、最後には和解する相手なのだから、結果は卑怯なコウモリと同じになってしまうことは分かっている。
 そうなると、自分の立ち回り方としては、それ以外でしかない。
「相手を絞って、どちらかに寄り添う形で、運を天に任せるか、あるいは、どちらにも加勢することをせず、中立の立場で第三者を装うという方法しかないだろう」
 ただ、中立を装うことになると、友達関係がどちらも壊れてしまう危険性もある。それはそれで仕方がないと割り切るしかないのだろうが、それが今後どのような影響を与えて、自分が立ち直るのがいつになるかと考えると、最終的にも、最初からという意味でも、孤独であったということになるのであろう。
 孤独を好きだという人もいるが、前はどうしてなのか分からなかったが、
「一人でいるということがこれほど自由をもたらすことになるなど、想像もしていなかった」
 と感じていた。
 中学、高校のように、クラスがあって、団体生活を余儀なくされると、
「孤独とは寂しいことだ」
 と思わざるおえない。
 そういう意味で、孤独と自由が同じ次元で存在するなど、考えたこともなかったのだ。
 孤独を寂しいと考えるか、自由だと考えるかは、まるで、長所と短所を探るようではないか。
 長所と短所といえば、背中合わせであり、一番近いところにあるという考えもある。しかし、実際に同じことが長所であり短所であったとしても、表に出てくることはそのどちらかなのだ。だから、同じ次元で語ることはできないだろう。
 だが、孤独における、寂しさと自由はどうだろう? あくまでも孤独というものが表に出ているのだ。そこからどちらが見えているのか、それは本人にしか分からないが、それを口にもできないだろう。
 寂しそうにしているからと言って、本当に寂しいのかどうか、そのあたりも分からない。態度によって決まるものではないと思えた。
「最初は寂しいと思ったが、実際には自由だったことが分かって気が楽になった」
 という人もいれば、逆に、
「最初は自由だと思ったが、結局は寂しさしか残らなかった」
 ということで、やるせなさしかなくなってしまったことに、憤りを感じる人もいるだろう。
 そういう意味で、結果からしか判断できずに、
「結果論でしかない」
 と言われてしまって、孤独の本質が分からないままになってしまう。
 孤独を自由と感じるには、たぶん、孤独を味わうと、まず寂しさがやってくるということが分かる人ではないといけないような気がする。孤独をいきなり自由だと考える人がいるとすると、その人は、寂しいと思う気持ちを打ち消して、最初からなかったことにしてしまうということしか考えられない人ではないだろうか。
 それを思うと、自分にとっての自由が何であるかを、常々考えていないと、いろいろ見失ってしまうことが多いと言えるのではないだろうか。
 最近では孤独を味わうという意味での、
「ソロ活」
 なるものが流行っているという。
 普段なら、数人ですることを、一人で楽しもうということであるが、その理由にはいくつかある。
 というよりも、複数でやることの理由にいくつかあると言った方がいいかも知れない。
 一つには、複数でする方が楽しいというシンプルな考え方だ。
 キャンプなどのように複数でワイワイやる方が楽しいことが多いと言えば、この一言だけで説得力があるだろう。
 もう一つには、一人でするのが恥ずかしいというのもある。
 例えば、最近では、
「ひとり○○」
 などというのも多く、会食などに多く見られるのだが、焼き肉であったり、鍋であったり、カラオケなど、数人ですることを当たり前と言われ、一人でするのが、恥ずかしいという兆候があったのだが、今では、一人でも歓迎の店が多いことで、ソロ活がやりやすくもなってきた。
 孤独を味わうために行うのがソロ活だとは断言できないが、孤独であることに変わりはなく、孤独を楽しんでいる人が多いのも事実だ。実社会から離れて孤独になりたいと感じる人が多いということだろう、
 もう一つには、一人でするのが気が楽だという人である。
 そもそも、人と一緒だと自分のやりたいようにできないことで、コミュニケーションが取れない人には、レクレーションなど、煩わしい以外の何者でもない。
 毎年恒例の、新年会や忘年会、毎日顔を合わせている相手で、しかも、いつも気を遣っている相手に対して、なぜ業務時間を離れてまで付き合わねばならないのか? それを思うと、一人になりたい時間があっても当然である。
 そういう意味でのソロ活が増えてきているのは事実だろうが、実はソロ活にもデメリットがある。
 一番のデメリットは、通常数人で手分けしてやることを、すべて自分一人でやらなければならないということである。
 キャンプなどであれば、テント設営や、食事の準備など、手分けしてやるようなことを、すべて自分でしなければならない。三人で一時間かかることであれば、一人でやると、単純に三時間かかってしまう。しかも、荷物も全部一人で運ぶことになるのだ。数人で手分けして持っても大変なのに、一人で持つというのがどれだけ大変かということを考えると、ソロでもできるという看板のかかったものであれば、インストラクターもいたりして、そこまで大変ではないかも知れない。そういう意味で、ある程度ベテランにならなければ、ソロでの活動は難しいとも言えるだろう。キャンプなどは特にその通りで、事故にならないようにしなければいけない。
 だが、自由であることには変わりはない。人と合わせる必要もなければ、些細なことで喧嘩になることもない。
 皆で同じ鍋をつつくのだから、よほど気が合った人ならいいのだろうが、自分が狙っていた肉や具材を相手に先に取られてしまうと、イラっときたりすることもあるだろう。
 予期せぬ何かが起こった時など、その人それぞれに対処法が定まっている人も多いだろう。一通りの対処法しかないのであれば問題ないが、いくつかの対処法があり、その優劣をつけることができないレベルであった時、自分の対処法を主張して喧嘩になるかも知れない。
作品名:クラゲとコウモリ 作家名:森本晃次