クラゲとコウモリ
もし発見されても。この被害者が誰なのかということを解明するのは難しいだろう。完全に白骨化しているので、指紋も顔もまったく分からない。身体は原型をとどめておらず、腐り切って敗れてしまった服の下は、肉の影も形もないほどの白骨である。男か女かも分からないそんな状態、誰に分かるというのだろう」
その小説が書かれた時代は、昭和初期、戦前の話である。DNA鑑定などあるわけもなく、被害者が誰だか分からないまま、しかも、殺害時期もハッキリとしない。殺人の時効は十五年という時代だ。時効がいつになるのかも分からない事件。警察も必死になるとは思えない。
行方不明者も時期が分かっていれば、何とか被害者を絞ることもできるだろうが、白骨になってしまうと、それも難しい。さらに、この被害者の捜索願が出ているのかどうかも分からないくらいだ。
もっといえば、失踪宣告がなされて、死亡の時期を迎えて、実際には行方不明のまま死亡が確定していて、死体がないまま葬儀が行われ、空気が荼毘に付されたということになっていたとすれば、もう、どうしようもない。
小説を読みながら、たったワンシーンで、いろいろなことを想像させられて、それはそれで香味深いことだった。
興味を持ってくれば不思議なことに、最初に感じた恐ろしさが半減してきた。冷静な目で見ていると、この話の真の怖さは、
「気持ち悪さにあるのではないか」
と感じたのだ。
「この小説でいう真の恐怖というのは、自分が生き埋めになったことではなく。生き埋めになるのを知ってか知らずか、大願成就を万感の思いで迎えて悪魔の微笑みを浮かべている加害者の恐ろしい表情は、気持ち悪さよりも恐怖心から、背中がゾクッとくるのであるが、被害者の方は、まさかと思いながら、相手が浮かべている悪魔の表情に対して、決して臆していない不気味な笑みを浮かべているのが気持ち悪いのだ。いずれ、正気になって、恐怖に変わる瞬間が目に見えているだけに、その前兆である表情は、一体何が彼を笑顔にさせるのか、それが恐ろしいのだ」
と感じた。
ここでの笑顔の応酬は、
「まるでそれぞれ相手に臆してはならない」
という感情に至ることであり、笑顔の裏に、二人とも悪魔の形相を隠し持っている。
それを、お互いに、
「最初に相手に悪魔の形相を見せてはいけない」
と思ったことだろう。
見せてしまうと、その瞬間に、その場では見せた人間が負けになってしまう。確かに状況は加害者の方が圧倒的に有利である。それは、すべての運命を握っているという意味でのことで、その場の表情の応酬という意味ではない。あくまでも相手に、
「悪魔の表情を見せてはいけない」
という意味では、加害者の方が不利であった。
なぜなら、加害者は、最後には悪魔の表情にならなければいけないという思いがあった。それが最後の復讐劇の完成であり、相手が自分の悪魔の表情を見ることで、自分がいかに絶望的な状況にあるのかということを悟らさなければいけなかったからだ。
これも、自分の悪魔の表情からでなければいけない。そういうシナリオだったのだ。
そう考えると、この場での悪魔の応酬に関しては、加害者に勝ち目はない。
となると、絶望的な状態ではあるが、最後に一矢を報いるのは、被害者の方であった。
それもこの一矢を報いるというのは、あくまでも、
「加害者を目の前にしての最後」
という意味で、そこから孤独に死んでいく運命には抗えない。
空前絶後の、想像を絶する恐怖が待っている状態で、相手が死んでいくという状況を作りだしたことで、加害者は、留飲を覚ますのだろうが、最後の悪魔の応酬での敗北を、どこまで引きづることになるのか、小説はそこまで詳しくは書いていないが、ゆっくり考えれば、このようなシチュエーションを思い起こさせる、
その証拠に、加害者はそれからしばらく寝込むようになり、半狂乱に近くなっていったという。
被害者と不義を働いた奥さんを取り戻すことはできたが、いまさら奥さんを愛することもできず。ただ、世間体を装うだけのために、一緒に暮らしているだけで、女も後ろめたさから逆らえない状態で、
「奴隷として飼われている」
そんな状態だった。
加害者には、SMの気があったのだが、もはや、奥さんに対してSっ気を示すこともなかった。
奥さんの方も最初は抗っていたたが、どうやら、Mの性質が芽生えてきたようで、最初はそんな旦那から逃げるように被害者の近づいたはずなのに、被害者が行方不明になって、旦那にまた飼われるようになると、実は密かにSMの世界を楽しみにしていたのだろう。
しかし、そんな素振りはまったくなく、前とまるで別人の旦那を、奥さんが今度は物足りなくなってしまったようだ。
「この人は、もはや前の夫ではない」
と思うと、奥さんは夜な夜な街を徘徊するようになり、娼婦のように、ただ男にいたぶられる生活をするようになった。
加害者の夫は、それを制することはできない。自分がすでに妻を懐柔できなくなっていることを分かっているからだ。被害者を殺してしまったことで、生活のリズムが狂ってしまったというよりも、今まで憎しみの中だけで自分が生きてきたことを悟ったのだ。
「ひょっとすると、加害者は奥さんを愛していたわけではなく、憎んでいたのかも知れない。そして、憎まれた奥さんも、旦那を憎むようになり、二人は憎しみの中でしか、愛情を表現できなくなったことで、SMという異常性癖に走ったのではないか」
と感じた。
もちろん、SMという性癖があるから、お互いに憎しみ合うようになったのかも知れない。ここでの順番の違いというのは、あまり関係のないことではないだろうか。
小説を読んでいると、そんなところまで考えるようになってきた。
その一番の理由は、何と言っても、あの生き埋めシーンの恐怖の戦慄によるものだが、そこからここまでの発想ができるなんて、まさか思ってもいなかった。
小説を映像にすると、どうしても、小説の想像力に勝るものはないということで、映像は色褪せてしまいがちだが、この話に限っていえば、それはないようだった。
そんなことを考えていると、いろいろな本を読んでみたいと思うようになっていた。
特に最近嵌っているのは、昔の探偵小説だった。大正末期から、昭和初期、戦後すぐくらいまでの探偵小説である。
今ではミステリー、推理小説などと呼ばれているが、昔は探偵小説という言い方であった。
日本での探偵小説の黎明期と言われた時代でもあった。ただ、この頃にはすでに、
「あらかたのトリックは出尽くしている」
と言われた時代でもあったのだ。
それを当時の作家はいかにして自分の作品として作り上げていくのかというのが、興味をそそったのだ。
当時の探偵小説の分け方として、
「本格探偵小説と、変格探偵小説」
というものがあった。
本格探偵小説と言われるものは、トリックや謎解き重視のものであり、変格探偵小説と呼ばれるものは、ストーリー展開などから、猟奇的なものであったり、異常性癖であったり、耽美主義の小説であったりするものが、主流であった。