クラゲとコウモリ
夢だとして起きてから意識してしまった瞬間、夢の中の出来事は意識で修飾されてしまい、すでに夢とは違った意識が芽生えている。これは前述の説明と同じなので、そう考えると、続きもおのずと違っている。これは、タイムマシンで過去に行って、過去を変えてしまったことで、戻ってきた世界が変わっていたという発想と同じではないだろうか。
また、さらに、
「夢というのは、楽しい夢は忘れてしまうのだが、怖い夢は覚えている」
と考えている、
これは、もう一つの考え方として、
「夢を見ていない時はなくて、眠っている時、夢というのはセットである」
という考えと結びついている。
そう考えれば、眠っていて覚えていない夢、見ていなかったはずだと思っている夢は、すべて楽しい夢だったということになる。そう考えれば、夢というのは、ほとんどが楽しい夢なんじゃないかと思うのだ。
では、なぜ、楽しい夢というのを覚えていないのかというと、
「夢で見る楽しいと思えることが一つしかないので、覚える必要がない」
というものだった。
つまりは、過去に一度は楽しい夢をどこかで見ていて、それを忘れてしまうほど、今までに何百回、何千回と夢を見てきているので、昔過ぎて思い出せないだけではないかと思うのだった。
そんな過去のことを考えていると、その間に見た怖い夢も、そんなに種類はなかったような気がする。いくつか種類があったように思うのはシチュエーションが違っているからであって、怖い夢というのは、現実離れしているから怖いのであって、それが夢と概念が似ていることで、結び付いていると考えると、怖い夢を覚えているという理屈にもなるというものだ。
しかし、それも最後には同じものに、結び付いてくる。
「夢の中で一番怖いのは、もう一人の自分を夢の中で見た時だ」
というものであった、
「もう一人の自分を、現実世界で見ることは恐ろしいことだ」
という話を訊いたことがあった、
「ドッペルゲンガー」
というらしいのだが、ドッペルゲンガーに出会うと、その人は死んでしまうという言い伝えがあるという。都市伝説の類なのだが、過去の例としてたくさんの有名人、著名人が「自分のドッペルゲンガーを見た:
という記録を残して死んでいるので、なまじ迷信だとか、都市伝説ということで簡単に片づけられるものだと言えるのだろうか。
ドッペルゲンガーというのは、
「世の中には自分に似た人が三人はいる」
と言われているような、
「似ていると言われる人」
ではなくて、あくまでも、もう一人の自分なのである。
だから、ドッペルゲンガーにはいくつか言われていることがあって、
「ドッペルゲンガーは、喋らない。本人の行動範囲を超えて現れることはない」
などと言われている。
だから、海外旅行をしたことがない人を、海外で見たと言われれば、それはよく似た人というだけで、ドッペルゲンガーではないのだ。
夢の中でも、似たような意識があるのだろうか?
ドッペルゲンガーというのを知る前から、
「夢で一番怖いのは、もう一人の自分が出てきた時だ」
と思っていたが、それは自分の潜在意識の中に、ドッペルゲンガーという発想があったからだろうか。
意識はまったくないのに、まるで最初から知っていたことであるかのように思うのは気持ち悪いことである。
「夢は潜在意識が見せるものだっていうけど、本当にそうなのかも知れない。潜在意識を考えることが、夢の正体に近づくのではないだろうか?」
と考えていた。
そんなあいりは、変なこと考えていた。
いつからそんなことを考えていたのか分からないが、
「必ず自分は行動範囲の中で、ほとんどの異性と会っている。その中で自分のことを好きになってくれる人が分かるようになる。自分から告白してはいけない。相手に必ず告白させる。自分から行けば失敗する。なぜなら自分から行くと、相手に自分の後ろから見られるからだ」
とそんなことを考えるようになった。
幾重にも重なった理論なので、一気にこんなに考えが結び付いたわけではないだろが、一つの道筋を少しでも離れると、この考えには至らないだろう、迷いのない間に考えたとすれば、一騎だったと思っても仕方のないことである。
なぜこのような考えに至ったのかまではよく分からないが、自分が引き付けたであろう人たちには共感を受けたようである。
「どこか変わっている」
と言われている女の子というのは、
「誰に対して変わっているというのだろう?」
そして、その変わっているという基準も曖昧ではないか、誰がどこでどのように決めたのか、分からない、
しかも、その人に何の権限があって、人を、
「変わっている」
という尺度で、差別的な待遇に追いやる権限があるというのか、考えると分からなくなってくる。
昔、祖母から聞いたお話の中で、昔の漫才師が、
「地下鉄ってどこから入れたんだろうね?」
というネタをやっていたというが、いまさら言われてみれば、確かに疑問が残る。
そういう意味でいくと、さらに気になるのが、
テレビなどで、芸能人などが、足場の悪いところなどを足を滑らせながら、
「危ない危ない」
と言って進んでいるのを、正面からカメラが撮っているのである。
今のように、ドローンなどのような機械があれば、そんなに難しいことではないだろうが、昔の映像にもそういうのがあるではないか。考えてみれば不思議である。
また、建築の世界でもそうである。高層ビルや高層マンションを組み立てるのに、土台を汲んだり、足場を作ったり、シートをまわりにかぶせたりしているが、どのようにしているのだろう? 骨組みが出来上がるまであれだけ時間が掛かったのに、実際に建物の壁が見えてくると、出来上がるまでにあっという間に感じるのはなぜなだんろう?
そうやって考えると、街中に溢れているちょっとした不思議なことは、無限に存在しているように思う。そう思うと、今度は前述の夢のように、すべての謎が共通の謎で繋がっているのではないかと思うと、一つが解決すると、他のことも一気に解決する。それが建築であったり、カメラであったり、地下鉄であったりと、疑問が疑問でなくなってくるのかも知れない。
だから、あいりが考えていることも、一つ何かが思い浮かべば、そこから発想はいくらでも無限に発生するのだろうが、目指す地点はある程度見えていて、そこから派生した疑問を次々に解決することで、いち早く、結論を導き出す。それは人間にだけできることではないだろうか。
それを人間以外の動物は、本能によって乗り切ることができるので、生きていけるのだろう。本能というのはバカにできるものではない。動物が生きる上での生命線である。人間にもその本能があるのだから、本能を研究するということは、人間を含めた動物を研究することである、
ひょっとすると、ロボットを研究するのも、本能を無視してはいけないのではないかと思えるのだった。
あいりは、たぶん、前述の発想は、
「本能という考え方から始まっているのではないか?」
と考えるようになった。