クラゲとコウモリ
綾香の場合は、容姿は男子ウケが抜群であるが、コウモリと呼ばれるほど、女性からはロクな目で見られておらず、男性からもよく知らない人は綺麗だというだけのイメージを持っていて、ある程度仲が良くなると、次第に彼女のあだ名がコウモリであるということに疑念を抱き始め、卑怯なコウモリと、吸血鬼「ドラキュラ」の両極端なイメージを抱き始めるのだが、最後には同じ着地点が待っているという、ある程度分かりやすいタイプの女性であった。
それに比べて、あいりの方は、別に綺麗でも可愛いというわけでもない。見た目はどこにでもいるという女の子で、どちらかというと、
「可愛いという雰囲気ではないだろうか?」
と言われるタイプなのだが、あまり、男性にモテるわけではない。
むしろ、気持ち悪がられていると言って方がいいかも知れない。それは男性に限らず、女性に対してもだった。
大学というところは、本当にいろいろな人がいる。中には、
「どこかおかしいんじゃないか?」
と言われる人もいるが、あいりは、そんなタイプの女の子だった。
だが、友達が一人もいないわけではなかった。どちらかというと彼女のような少し変わった女の子が集まってくる。数人集まればその中でリーダー的な存在が誰になるのかということが自然と決まってくるようなのだが、そのリーダーになったのが、あいりだったのだ。
あいりは、
「ちょっと変わってる女の子」
ということで、まわりから敬遠されるタイプの女の子を引き付けるようなところがあった。
ほとんどの、変わっている女の子というのは、ほとんど一人寂しく、佇んでいて、ただ、見るからに、
「あの人何かある」
という雰囲気を醸し出すから、誰も寄り憑かないのだ。
しかし、あいりは、そんな女性たちから見ると、いかにも同類に見えているようで、彼女たちの方からあいりに近づいてくる。
そもそも、まわりから変わっていると言われる人たちは、自分がまわりから気持ち悪がられるのは分かっているが、あからさまにそんな態度を取られることを嫌がる。なぜなら、分かっているつもりではいるが、いかにもそんな目で見られると、人生が終わったかのように思えてくるからだ。
自覚する分にはいいのだが、他の人も思っていると感じたくはない。それは、まるで胸を刺されて虫の息になっているところを、ロープで首を絞められているかのような感覚だったのだ。
だから、まわりが自分をどう思っているかということを一番知りたくない。そういう意味では、友達ができるなどありえなかった。
もし、できたとしても、結局気持ち悪がられるか、最後は裏切られるかのどちらかである。それを思うと、友達などありえない。そして、まわりが自分をどう思っているかなど、気にしてはいけなかったのだ。
それだけ、捻くれた気持ちを持っているということだろう。少しでも自分にいいところがあれば、ここまでは思うことはないと感じている。つまり、彼女たちは、自分にいいところなどまったくなくて、自分が気持ち悪いという自覚もあり、まわりから、それを突きつけられるのを怖がっているという、考えただけでも、近づきたくない相手だと言えるのではないだろうか。
目の前にいるのに、その存在を意識されないという、
「路傍の石」
のごとく、必死に気配を消して生きている。
そんな中にも二種類いて、気配を消そうとすればするほど目立ってしまう人と、本当に気配を消してしまって、まったく自分のまわりには、結界が張られてしまったことで、姿さえ見えないような存在の人間であった。明らかに後者の方が稀であり、言われているだけで、
「本当に気配を消すことができる人間などいるのだろうか?」
と感じるほどであった、
だが、あいりは、そんなことができる女の子だった。それも、普通なら意識をすればできないことに思えるのだが、あいりの場合は意識をしてそれができるのだ。
元々あいりも、人前で気配を消すなどということができるなどということは考えたこともなかった。何しろ、目立ちたいとまでは思わなかったが、気配を消してしまうと、自分の存在価値がなくなるのではないかという、普通の考えを持っていたはずなのに、いつの間にか、
「気配を消すことって、結構気が楽になれるんだ」
と考えるようになっていることに気づくようになっていた。
その考えを、
「これは自分だけの考えではなく、本当は皆潜在的に持っているもので、表に出してはいけない恥ずかしいことだ」
と、自分以外ではなく皆持っているもので、裸になるよりも恥ずかしいことだとして、考えているということ自体を認めたくないという考えから、皆、意識して考えないようになったのだろうと感じたのだ。
そんなあいりにとって、
「気配と消すことで、見えてほしくない人には見られることはないが、見えてほしい、同類と思える人には見られていて、そんな人たちを引き付ける力を秘めているのではないか?」
と感じさせるようになっていた。
潜在意識というものは、無意識に持っている意識であって、それは人さまざまであるので、潜在意識がどういうものなのかということは、まわりはもちろん、本人にも分かるものではなかった、
分かってしまえば、もはや潜在式ではないからだ。
「夢というものは、潜在意識がなせるわざだ」
とよく言われているが、それはきっと夢というものを目が覚めた時に覚えていないというところから由来して言われるようになったのではないだろうか。
夢というのは、いろいろと言われているが、少なくともあいりはそのうちのいくつかを信じていた。
一つは、
「夢というのは、同じ夢の続きを見ることができない」
ということである、
これはある意味当たり喘のことであるが、同じような夢を何度も見ている人もいると思うが、実際にはまったく同じ夢というわけではない。
それは、夢を覚えているからであり、一度見た夢を目が覚めてからも途中までを意識して覚えていることから、潜在意識に、さらに時代を超えた無意識の意識が付け加えられているのだ。だから、同じ夢であっても、微妙に違っている。だから、夢の中で、
「前に同じような感覚があったような気がする」
とは感じることはなく、目が覚めてから、初めて、
「前に見た夢と同じ夢だ」
と感じるのだった。
つまりは、夢というものを考えた時、
「デジャブ現象というのは、夢に限っていえば、ありえないことなんだ」
という思いである。
たまに、
「デジャブにて、前に見たことがあるというのは、そういう夢を見たからではないか?」
と考えるのだが、それは夢に見たからではなく、同じ夢を二度見た時だけに感じる感覚なので、それは一般的にいわれる、
「デジャブ現象」
ではないのだった。
少しややこしくて、考え方を理論的に説明しようとすると、説明する方も頭が混乱してしまうに違いない。
そう思うと、もう一つ考えられることがあった。それが、
「夢の続きを、次の夢で見ることはできない」
ということである。