クラゲとコウモリ
まわりの男の子は、まるでアイドルの推しにでもなったかのように、ちやほやしてくれる。友達の女の子と街を歩いていると、芸能事務所のスカウトマンが、声を掛けてきて、名刺を渡していく。
街を歩いていて頻繁に男性に声を掛けられるが、半分以上は芸能プロダクションのスカウトだった。
「ナンパなんて皆してくるけど、芸能スカウトがここまでいっぱい来るなんて、やっぱり綾香は目立ってるわよね」
とまわりから、ちやほやされた、
しかし、まわりの友達が皆、ちやほやしてくれるわけではない。むしろ、嫉妬心を剥き出しにしている子もいるというのに、綾香はそんなことも分からずに、ちやほやされていると思い込んでいる。
とにかく、自分に本当の自信があるわけではないのに、まわりがちやほやしてくれることで、自分がもてているということを正当化しなければ、自分の存在価値はまったくなくなってしまうとすら思っていた。
それだけ、高校時代までは暗く寂しい女の子で、実に狭い世界の中でだけ、存在価値を見出せていた。
それが急にちやほやされ出したのである。自分を見失ったとしても、それは無理もないことだ。
だからと言って、誰かが助けてくれるわけではない。途中で挫折して、どうすることができなくなったとしても、まわりは同情などしてはくれない。
「自業自得」
と言って上から見下ろされて嘲笑されるだけであった。
そんな日が来るなど思ってもみなかった。
付き合ってほしいと告白してくる男はたくさんいた。
最初は、断っては失礼だと思って、付き合ったのだが、なぜかあれほど最初に、
「君のことが好きだ」
と言って、その後も腫れ物に触るように大切にしてくれていたのに、実はそれが、男にとっても、絶えず安心できないものだとは思っていなかった。
綾香とすれば、
「私を好きになってくれたんだから、私のわがままくらいは聞いてくれる」
という思いもあったのも事実だった。
彼女は絶えずまわりからちやほやされる。ちやほやされると断り切れないのが彼女のいいところであるが、男にとっては、やり切れない。
本心がどこにあるのか分からずに、
「私を好きになってくれた人を無視できない」
と、まるで最初に彼に感じたのと同じ思いを抱いた。
彼に対しても抱いたのだから、他の男性にも抱いてあげないと不公平だと綾香は思った。しかし、それは絶えず彼女に対して不安を抱いている彼にとっては、嫉妬の塊りとなって押し寄せてくる。
彼も思うのだ。
「どうして、俺がこんな気持ちにならなければいけないんだ」
と……。
「その憤りを彼女本人にぶつけることはできない。何しろ人気がある彼女を独り占めできているという自負から、みっともない恰好はできないという思いもあるのだ。だが、そんな気持ちをスルリと抜けようとする彼女の無慈悲な態度に怒りがこみあげてくる。どうして、俺をここまで怒らせるんだとしか思えないんだ」
と、彼は感じるのだ。
そこまで来ると、今度は彼が冷静になって考える。そして考えるとすぐに答えが見つかった。
彼女が好かれるのは、誰に対しても同じように接しているからで、だから、自分も彼女にアタックすればうまくいくのではないかという打算があったはずなのだ。そう思うと、彼女だけを責めるわけにはいかないが。このまま付き合いを続けると、お互いにロクなことにはならない。
そう思うと、別れは必然的に彼の方からになってくる。
「どうしてなの?」
と、まさか彼女の方もいきなり宣告されるとは思っていなかっただけに、その瞬間、立場が変わってしまったことを感じた。
綾香の方も、自分の尻尾を男が追いかけてきていることに気づいていた。
「尻尾を振れば追いかけてくるネコのようだ」
と感じていたのだろう。
それだけに、相手が踵を返して上から目線でこっちをフルのが分かると、
「何よ、一体。何様のつもりなの?」
とでも言いたげだった。
自分も、他に言い寄ってくるたくさんの男がいるのに、彼の手前、うまくいなしているつもりだった。だか、それをどうして分かってくれないのかと思うと、そこから先は平行線でしかない。
その時初めて、自分たちが合わないということに気づくのだ。
ただ、綾香とすれば、別れを告げられたのが自分の方だということに我慢ができなくなっていた。この思いは女としてのプライドなのか、こっちが優位に立っていると思っていたものを根本から覆されたことからなのか、とにかく、綾香にとっては男が自分に靡いているのが、自慢だった。付き合っているということの証明でもあったのだ。
男の方は、まったく振り向きもせずに歩いていってしまう。
もし、彼に新しい彼女ができたのだとすれば、その彼女を恨むことで、気持ちを整理することもできたかも知れない。それがいい方法なのかどうか分からないが、仮想敵を作ることで、感情を覆すことができるのだった。
だが、彼に新しく彼女ができたというわけではないようだ。それなのに、あの晴れやかな顔をしているというのか、
「やっと自由になれた」
という顔をしていた。
それだけ綾香は、彼のことを縛っていたのだろうか。別に束縛していたという意識はない。では、彼が示したあの自由になれたという感覚はどこから来るのだろう? その時の綾香には分からなかった。
彼に、
「どうして別れることになるのか、ちゃんと説明してよ」
と言って詰め寄ったが、最初は彼は黙して語らなかった、
それを彼の優しさだとはまったく思わず、
「別れの理由を説明することなく別れようなんて、卑怯よ」
と追い打ちをかけてしまった。
本音は。
「どうせ別れるのなら、その理由を知ることで、少しでも相手が悪いと思えることであれば、相手を恨むことで少しでもショックを減らしたい」
という思いがあったからだ。
よしんば、別れの理由に、彼にまったく非がないとしても、
「理由を理解さえできていれば、これ以降も私は恋愛に関して考えを深くすることができて、これはその授業料みたいなもの」
という、まるで、転んでもただでは起きないという気持ちを言い訳にして、どちらにしても、知らないより知ることの方がメリットがあると思ったのだった。
さすがに、彼もここまで言われると、意を決していうことにしたようだ。彼としても、文句の一つも言いたいと思っていたのかも知れない、
「君はいつも自分のことばかりで、まわりのことを見ていない」
とハッキリと言った。
「何よ、それ」
と吐き捨てるように言ったが、
「これ以上でもこれ以下でもないのさ。ゆっくりと考えてみればいい」
とこちらも吐き捨てるように言ったのだが、言葉の重みは彼の方が遥かに重かったのが分かった。
綾香の方も、頭に血が上ってしまい、何かを言い返したいと思ったが、頭に血が上ってしまったせいか、何も言えない。もっとも、頭に血が上っていなかったとしても、言い返すことはできなかっただろう。冷静に考えれば考えるほど、綾香に何も言い返す言葉などあるわけはなかったからだ。