恐怖症の研究
第一線をほぼ実績なしで室長にまで上り詰めた里村教授には、すでに進む方向性は決まっていたのだ。
だがここに来るまでに、覚悟がいらなかったわけではない。そこは密かな覚悟を持つことができるような自分を、秘密裏に形成し、その第一の成果として、自分の研究員には嫉妬しないという考えだった。
だから、小林研究員を招き入れることができたのだし、川村教授の裏表のある性格を、ハッキリとではないが、看破することができたのではないだろうか。
「私にとって、永遠の好敵手は、やはり川村教授なんだろうな。もっとも相手は私など相手にしないほど、遠くの先の方にまで行ってしまっているのかも知れないが」
と里村教授は考えていた。
小林研究員を全面的に信用はしていないが、受け入れた以上、
「現在在籍している研究員と切磋琢磨しながら、新しい研究で成果を出してもらいたいな」
と、里村教授は考えていた。
門松記者が居酒屋で、川村教授と話をしてから、二週間後であった。川村研究室から、プレス発表があると言って、各マスコミがが、F大学に招かれた。以前は何度か行われていたプレス発表だったので、ベテラン記者は懐かしいと思うのだろうが、ここ数年はまったく目立った発明もなかったので、若い人などには初めてだったことだろう。川村教授も久しぶりということで妙に緊張しているようだったが、そのあたりは、黙っているだけで落ち着いて見える効果が、老齢と白衣にはあるようだった。
「白髪だったら、完璧だったのに」
と思うくらい、精神的にはまだ川村教授には余裕があったのだろう。
最初は緊張していても、覚悟が決まれば落ち着いてくるということを分かっているだけに、必要以上な落ち着きのなさは、一切なかった。
「えー、本日は、お忙しい中、我がF大学川村研究室のプレス発表に起こしいただき、ありがとうございます。今回の発明は、高所恐怖症の方にお勧めしたいという発明になります。詳しい話は、こちらの川村教授の方からお願いいたします。それでは、川村教授、お願いいたします」
という、大学側の司会役の人間から紹介された川村教授は、すっかり覚悟も決まり、落ち着き払った態度は、研究員からも、さすがだと思われているようだ。
演台に上がった教授は一度咳ばらいをしたかと思うと、まずプレス席を見渡して、一つ頷いた。その中の後ろの方に、この間居酒屋で話しかけてきた門松記者が鎮座しているのが見えたからである。
演台から見渡した光景と、客席から見る演台とでは、見え方がまったく違うというのは、演台に上がったことのある人間であれば、分かるだろう。マスコミ関係者のほとんどは、たぶん、演台の経験があるのではないかと教授は思っているようだが、どうであろうか?
今回、教授は珍しくメガネを嵌めていた。縁がべっ甲色になっていて、目立つメガネだった。川村教授を知っている人は、普段教授がメガネをしないことは知っているだろうから、違和感があるだろう。実際に門松記者も、
「おや?」
と感じたほどだった。
さらに、川村教授のことをよく知っている人は、客席を最初に見渡す素振りに、違和感を感じた人もいるだろう。演台に上がると、すぐに原稿に目を落として、早く終わらせようという気持ちがありありだった教授が、最初にまわりを見渡すなど、今までであれば考えられないからだ。
「どうしたんだろう?」
と思った人も少なくない。
だが、この行動も、これから話すことのパフォーマンスだったのだ。
その証拠に、門松記者と目が合った川村教授は、思わず頭を下げた門松記者につられる形で、門松記者に自分も軽く会釈をしたのだ。
最初は、
「ああ、気付いてくれたんだ」
と思ったが、よく考えてみれば、ライトが集中していて、目の前が明るさに溢れている演台上の人間がいちいち客席が見えるというのは、普通はないだろうと思った。
若い人であれば、目がいい人もいるだろうから、ずば抜けて見える人もいるだろうに、教授ほどの初老ともなれば、そんなに簡単に見えるはずはない。
この部屋に最初に入ってきた時から、何か違和感を感じた人もいるかも知れないのだが、それが何かというと、プレス席は、基本的に照明が消されていて、記者が真っ暗になると困るので、特設の安易テーブルのついた椅子には、小さなスポットライトが設けられていた。
「まるで、舞台のようじゃないか?」
ということだったのだ。
これこそが今回のプレス発表の効果であり、大学側の演出だったのだ。
「皆さん、本日は集まっていただいてありがとうございます」
と、軽く挨拶をし、
「今回は、先ほど進行役の方が言われた高所恐怖症に関する恐怖緩和を、もう一つは、自動で、目に入る明かりの効果を遮断できる効果を持った、今私がしておりますこのメガネをご紹介させていただきます」
と言って、メガネを取って、手を伸ばして、こちらに近づけるように示したのだった。
「おおっ」
と小さなざわめきが起こったが、それほどの発明なのかと思われるのも仕方のないことで、これが民間の会社の発表であればすごいのだろうが、研究室の発表だというところに、どこか一抹の寂しさのようなものがあった。
ただ、F大学の川村研究室が、新しい発明を行わないと、文部科学省からの支援金を打ち切られるという話はすでに公然の秘密のようになっていて、マスコミには分かっていた。それだけに、この発表も致し方のないところがあるということが分かっていて、ある意味、「茶番で終わるかも知れない」
と考えている人もいるだろう。
川村教授は、まわりを見渡して、すでにここに集まった連中に対し、自分がマウントを取れたと確信したのか、ニヤッと顔が歪んだ。それを分かった人が、果たしてこの中にいたのであろうか……。
プレス発表