恐怖症の研究
「嫌なものでも、それは嫌だと思っているから嫌なだけであって、誰がそれを嫌なものだと決めたんだってことだよね。嫌いなものは嫌いだから、好きなものは誰が何と言おうとも好きなんだよ。たとえ、非難されようともね」
と川村教授がいうと、
「そうですよね。だから、僕は研究に対してもストイックなんです。必死でやればやるほど、嫌なことを見ないで済みますからね。人はそれを逃げだっていうかも知れないけど、僕はそれならそれでもいいと思うんですよ。それで成果までついてくれば、一番いいじゃないですか」
と小林研究員は言った。
だが、彼はその思いを、成果の方に向けた。
人から、逃げだと言われてしまい、それが違うのだということを証明したいと思ったのだ。
それを証明するためには、成果を人に知らしめればいい。成果を出すことが、自分の正当性を訴えるには一番の近道だと思ったのだ。
それは、彼の承認欲求を満たすことになるのだった。
そんな彼の気持ちに、川村教授は気付かなかった。
川村教授は、成果物に対しては、かなりシビアな方だった。
「検証には検証を重ねて、これでもかというほどの証明ができなければ、表に成果として出すことはできない」
と考える方だった。
だからこそ、川村教授はまわりに対して、自分がシビアであることを装っていた。
それなのに、川村教授の気持ちも知らずに、自分の研究が信用されていないから、ここまで検証されるんだと思った小林は、それだけ分かったということだろう。
それに引き換え、里村教授は、成果に関しては寛容だった。
「私は研究員の実力を認めていますからね」
と口では言っているが、そうでもしないと、自分の立場が危ないとでも思ったようで、少しでも、研究員に寄り添っているというポーズを示さないと、いいところをすべて研究員に持っていかれるという、少し被害妄想的なところがあったのだ。
そういう意味では川村教授とは正反対だった。
彼は、川村教授を目の敵にしているところがあった。彼には、誰か仮想敵がいないと、自分の士気を保つことができないということを分かっていなかったのだ。
いや、分かっているのかも知れないが、自分で認めたくなかったと言った方がいいだろう。
小林研究員と里村研究室の思惑が一致したことが、彼を里村研究室に移籍させる引き金になったのだが、それでなくとも、川村教授に嫌気が差していた彼にとって、里村研究室の存在は、ありがたかったに違いない。
小林研究員が、川村研究室を辞める時、案外と簡単だった。
辞表を持っていって、
「すみません、これを」
と言って、教授の机の上に、退職願を叩きつけた時は、感無量だった。
「どうだ。引き留めてみろ」
と言わんばかりのどや顔だったのだが、その表情は意外にもアッサリとしていて、
「ああ、そうか。今までご苦労だったね」
としか言わなかった。
これがまた、小林のプライドに火をつけたのだ。
――こんなものなのか――
と、自分がむしろ今まで辞めなかったことの方がおかしく感じられた。
明らかに、自分の居場所はここにはないからだった。
だが、小林の心の中で、
「何かが違う」
という感覚が芽生えていた。
何が違うのかまではハッキリと分からなかったが、何かが違うということだけが分かった。それは、それまでの苛立ちや、無知なところの多かった小林だったら、決して感じることのなかったことだろう。自分でそれが分かっているというのも皮肉な感じがして。苛立たなければならないはずの感情が芽生えているのに、自分でもよく分かっていないところだった。
小林が、里村研究所に移籍してからは、それまでのイメージとまったく違っていた。人に気を遣うことのなかったはずの小林が、協調性を示せるようになってきた。本人とすれば、
「これは、俺が今までのように川村研究室にいたら、考えもつかなかったことが考えられるようになったからなのだろうな」
と思うと、自分を簡単に辞めさせてくれた川村に礼を言いたいくらいだったが、まだまだそんなことでは足りない。
「小林君がいてくれたらな」
と言わせるのが目的だった。
「これまでは小林君がいてくれたから、研究室も回っていたけど、小林君がいなくなったせいで研究室は回らなくなった」
と言っているのが目に浮かんできそうだ。
それを証明するかのように、小林がいなくなってすぐに、文部科学省の方から、大学に対して、
「支援金の打ち切りも視野に入れています」
という話が舞い込んできたのだ。
しばらくは、大学の方で握りつぶしていたようだが、さすがに黙っていられなくなって川村教授に話すと、さすがに教授も青天の霹靂だったようで、
「いきなり、そんな話をされても」
と、窮地に陥ったのだった。
それも正直、小林が瞼の裏に思い浮かべただけであって、実際には、
「そうですか。分かりました」
と、大学側にはそういっただけだったが、心の中ではどのような波紋が広がっているか分からなかった。
それでも、表に出てきたのは、
「実に落ち着き払った川村教授の表情」
だったのだ。
表と裏でどれだけ違うのかということを、小林は気付くことはできたはずだ。ヒントは隠されていたではないか。彼が、辞表を叩きつけた時、引きとめることもなく、受け取った態度、小林はそれを、
「負け惜しみのような態度だ」
と思ったのだろう。
しかし、それは、逆に余裕の態度で、小林に対して自分が、
「裏表のある人間だ」
ということを示すためのヒントを与えていたことになるのだ。
なぜにそんなまどろっこしいことをしたのかというと、それが川村教授の余裕を見せたということであり、女性であれば、
「あざとい態度だ」
と言ってもいいかも知れない。
もちろん、小林研究員を始めとして、他の研究員も、他の教授も、川村教授はそんな性格だとは思ってもいない。
「彼は、実に落ち着いていて、いつも余裕を持っている裏表のない人間:
と思われているのだろう。
しかし正しいのは、余裕を持っているというところであり、落ち着いて見えるのも、裏表がないように見えるのも、彼のあざとさに、皆が騙されているからだ。
彼にはそれだけのこれまでの実績があり、まわりにそう思わせるだけの演技力も備わっていた。だが、演技力がなくても、誰も疑うことがないくらいの実績を彼は示している。川村教授は、
「記録よりも記憶に残る教授だ」
と言ってもいいのではないだろうか。
川村教授の本当の姿を知っている人がどれだけいるかはハッキリとしない。しかし、ほとんどの人が知らないことは間違いないだろう。そのことを川村教授もしっかりと自覚していたのだ、
ある発明
川村教授の正体など知る由もないはずの門松記者はどうして、川村教授に近づいてきたのだろう?
まるで里村教授の考えていることを代弁しているかのようで、まるで、
「里村教授に言われて、わざと近づいてきたのではないか?」
と思わせるほどだった。
里村教授という人は、どちらかというとオープンな方で、あまり研究に没頭する方ではなかった。