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恐怖症の研究

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 本当は、それを大っぴらに使いたいのだが、過去に起こった某国による「サイバーテロ」によって世界的なパンデミックに陥ったことがあったので、その点にはかなりの権益があるだろう。ハッキリとしたビジョンと、安全性が証明されなければ、まったく何もできない。まずは、やはり、骨子を固めることであった。
 実際には今、開発の材料となることがいくつか考えられていて、それらが結び付くまでに至っていないことが問題だった。まずは、研究室内での第一班との競争に勝たなければ、その先はない。
 いや、敗北の汚名と傷つけられたプライドの下に、第一班の後方支援に回らなければいけない。
「敗北したんだから、そこは潔く勝者に従うのは、当然のことだ」
 と一般人は簡単にいうだろう。
「スポーツだって、勝者に対して敬意を表するから、敗者にもスポットが当たるんだ」
 という人もいた。
 歴史研究家の中には、
「歴史は戦争の歴史であり、勝者がいれば敗者がいる。勝者は、華々しく歴史の表舞台に出るが、敗者にもそれなりの美徳がある」
 と言って、敗者を中心に研究している歴史研究家もいるくらいだ。
 だが、一班の研究員はそういうことはない。表に出なければ終わりなのだ。次の機会もあるだろうが、いつになるか分からない。やはり勝者にしかスポットライトは浴びない。競技や戦争でないと、敗者にはスポットライトが当たらないようになっている。特に日本という国は、
「判官びいきの国」
 つまりは、敗者に美徳が見られなければ、魅力はないということだ。
 戦争などでは、敗者のエピソードが書物などから発見されたり、スポーツでは、努力をしている場面がドキュメンタリーで取材を受けたりすると、特集が組まれて、涙を誘うなどということがある。
 それは努力している姿が、分かりやすいからだ。
 スポーツで身体を鍛えている姿などを映像で見せつけられると、
「何とか勝たせてやりたい」
 という心に、民衆心理を誘導することができる。
 それは、努力をしている姿を自分と重ね合わせてみることができるからだ。
 しかし、研究というのはどうだろう? 研究所に籠って、寝る間も惜しんで研究している映像を流しても、誰が感動するだろうか。
 自分に当て嵌めてイメージできなければ、感動には程遠い。スポーツにおけるトレーニングであれば、どんなスポーツにおいても共通なので、イメージを重ねることができるが、研究室で専門的な研究をしているところなど、まるで嫌だった学生時代の勉強を思い起こさせて思わず顔を背けるというものだ。
 そんな状態の敗者に誰が同情するというのか、それこそ、脚光を浴びた人が、例えば世界的に有名なノーベル賞でももらったとかいうのであれば、一時的に、
「日本人の誇り」
 などという人もいるだろうが、実際にはその時だけのことである。
 一年も経てば、高校野球で日本一になった高校は覚えていても、ノーベル賞を受賞した人が誰で、何の部門なのかということすらも忘れ去っていることだろう。
 高校野球の優勝校を覚えていることは、
「それくらい常識だ」
 と世間はいうだろうが、同じ常識でも、ノーベル賞だとイメージが薄いかも知れない。
 印象にどちらが深く残るかということなので、テレビで決勝戦を見た人は、映像で覚えている。しかし、ニュースで一瞬だけ、表彰式のシーンが遠くの方で写されるだけだったり、下手をすれば、テロップのみで映像がないということも珍しくはない。やはり、スポーツというのは、
「平和の祭典だ」
 と言われるゆえんであるが、緊急事態時には、私利私欲に塗れた連中に利用されるだけなのだということを、国民は知ってるので、果たしてどこまで、スポーツを好きでいられる人がいるか、見ものでもあった。
 とはいっても、細菌ウイルスの研究は進めなければいけない。それが遺伝子関係が絡んでくると、余計になのかも知れない。遺伝子というものはいまだに解明されていない部分も多く、その伸びしろはまだまだ果てしないものがあると思われている。まずは、いろいろなサンプルを集めるのが最優先だと感じていた。
「ウイルスにおいても、細菌においても、悪玉もいれば善玉もいる。悪玉ウイルスが爆発的に流行した時でも、同じウイルスの善玉の発見により、収束を早めることができたという例もあったと聞いている。それらの資料をまずは集めてきて、実際に研究することもやってみていいのではないか?」
 と、沢口研究員は考えていた。
 ただ、よほど気を付けないと、蔓延させて、人災を引き起こすと、それは本末転倒である。あくまでもシェルターで人間が介在しない形での実験を行う必要があった。
 F大学の研究室では、その実験が可能であった。細菌シェルターを持っている全国でも有数の大学だったからだ。
 研究はうまく進んだ。思ったよりも資料の通りに実験することで、うまい具合に、精製と培養ができた。沢口研究員の考えとしては、これらの研究で、元々存在している資料は、入り口と出口、つまり、始まりと結果については詳しく書かれていたが、そのプロセスにおいては、それほど詳しくは書かれていない。あくまでも形式的に描かれているだけだった。
 そのため、プロセスを知るには、実際にやってみるしかなかった。逆に言えば、沢口研究員の頭の中では、このプロセスこそが、この研究の突破口になると思ったのだった。
 今のところ、研究を始めようにも、大きな前提すら、決まっていない。もっともその前提を見つけることが一番大切なのだ。
 前提がなければ、第一歩も踏み出すことはできない。それを思うと、今までそれを一人でやってきた川村教授というのが、どれほどすごいものなのかが分かった気がした。
「さすがに教授になるだけの人、俺たちなんか、まだまだこれからの人間ではないか」
 と思うのだった。
 それでも、今回の細菌研究において、悪玉から善玉を取り出すという実験が、今までは悪玉を生かしたままでしか、善玉を作ることはできなかったのだが、悪玉を殺しながら善玉を生成するというやり方ができればいいのではないかと思った。前の研究でもそこまでできればよかったのだろうが、何しろ、完全に蔓延してしまった状態で、善玉の効果が一番だということを臨床実験で検証済みであったので、まずはスピードということで、一気に善玉の大量生産に舵を切った。
 その成果もあって、その時の流行は収まったのだが、今度はいざ悪玉を殺しながら善玉を生かすという研究を始めようとした時、国家の予算が底をついてしまった。
 細菌の流行によって、都市封鎖などの影響で、経済は疲弊し、その保証などに国家予算を使わざる負えなかったので、もう、これ以上の研究に費やすお金は残っていなかった。
 そのため、伝染病蔓延防止プロジェクトの解散を余儀なくされ、そうなってしまうと、実験も終了するしかなくなっていた。
 一度研究が途絶えてしまうと、本当はさらなる研究が必要なのに、その優先順位は一気に下がってしまう。
「喉元過ぎれば熱さも忘れる」
 という言葉もあるが、伝染病が収束し、社会生活が元に戻ると、それまでの悲惨だった生活も、二年もすれば、国民の中では、
「過去の歴史」
作品名:恐怖症の研究 作家名:森本晃次