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恐怖症の研究

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 そういう意味で、川村教授が沢口研究員を、他の研究員と違った目で見ていて、第二班の班長に抜擢したのも、それが理由だった。沢口よりも年上の研究員もいるのに、沢口を指名したのだが、どこからも文句は出なかった。それほど沢口研究員は、同僚や先輩からも一目置かれる存在だったのだ。
 川村教授にとっては、自分とは真逆であり、どちらかというと、小林研究員に似たところがあった。それも彼をリーダーにした理由であったが、最初の理由とは、小林研究員が絡んでいるという意味では少し違った。
 沢口研究員のような人は、本来なら第一班のリーダーの方がふさわしいのかも知れないが、彼のような性格の男であれば、決められた方針を貫く方が性格的にはいいと思っている人がいるだろう。
 素直に言われたことを真面目にこなしている姿は、暗い性格に見えるのだが、見た目の暗さが本当の性格を表していて、彼は従順なわけではなく、どちらかというと野望を抱く方ではないだろうか。その性格を教授は見抜いて、沢口研究員を第二班のリーダーに据えたのだった。
 だが、彼にはまだ少し荷が重いようだった。プレッシャーがあったのか、それまで呑みに行ったりする方ではなかったのに、最近はよく呑みに行くようになった。それも誰かと一緒に行くわけではなく一人で行って、一人で呑んでいた。
 他の人に相談できるような性格であればよかったのだろうが、根暗と言ってもいいくらいの彼には、到底人と一緒に呑みに行くということはなかった。それでも、一人で呑みに行くようになって、
「居酒屋というのは一人で行くところなんだ」
 と勝手にそう思うようになった。
 それがここ半月くらいのものだろうか。店にも馴染んできた頃で、毎日のように来ている一人の客というのは結構目立つもので、店の人もあまり余計なことを言うことはなかった。客が話しかけてきた時に話し返すくらいで、それが店側の姿勢だった。
 それに沢口研究員が来店する時間は、まだ客が増える前で、開店が五時なので、六時くらいに来るとちょうど仕込みも終わって、ちょうどいいくらいの時間だった。だから、開店一番の客になることも多く、九時くらいまでは、あまり客が混んでいない時間帯なので、沢口研究員は、ちょうど人が混み始めると帰るようにしていた。
 やはり、人が混んでくるのは嫌で、研究者にはありがちの自分の世界に入りがちなところがあることで、沢口研究員は、そんなに酔うこともなく帰れるのだった。
 この日も、午後九時前くらいに、そろそろ店が混んでくるのが分かったので、家を出たのだが、そのくらいだった。
 その日は、夕立があり、少し気持ち悪さが残っていたが、雲はそんなに出ていなかった。そのおかげで、満月が綺麗であった。空を見上げながら、ちょうど、一級河川の河原を歩いていると、月が川面に浮かんで見えて綺麗だった。
「酔いが回ってくると、なぜか視力が上がったような気がするんだよな」
 と思い、酔い覚ましをかねて家に着くまで、いろいろな景色を見るのも好きだった。
 その日は、河原にあるベンチに座って、月を見ていた。すると、その横に一人誰かが座ったのに気付いたが、顔をすぐに向ける気はしなかった。その人が女性であるのは分かったので、どう対応していいのか分からないというのが本音だった。
 沢口研究員は、今までに彼女がいたことがなかった。真面目過ぎて、しかも、目標が決まっているような人に、なかなか女性が近づくことはないような気がした。
 他にもベンチはたくさんあって、しかも、他に座っている人はいないにも関わらず、敢えてこちらに来ているということは、沢口を狙ってきているという以外には考えられない気がした。
 横目に見ると、彼女は別に沢口研究員の方を見るわけではなく、川の方を見ている。
――この人、何を考えているんだろう?
 という思いを抱くのは当たり前のことだった。
「今日の月は綺麗ですね」
 と、そろそろいたたまれなくなって立ち上がろうと沢口が思った時、隣の女性がそんな沢口の心境を知ってか知らずか、声を掛けてきたのだ。
「ええ、僕もそれに気づいたものだから、空を見上げていたんですよ」
 というと、
「よくここで空を見ているんですか?」
 と言われたので、
「いえ、そういうわけではないんですが、たまに酔っぱらった時などは、空を見ることがありますね」
 というと、
「そうなんですよ。酔っぱらった時って、なぜかよく見えたりするんですよ、色も鮮明に見えるしですね。普段は緑に見える信号機が真っ赤に見えたり、赤い色はさらに鮮明な赤に見えるので、ずっと見入ってしまっていたりしますね」
 と、彼女は言った。
 その話を訊いて、
「さっきも、私は同じことを思ったんですよ。偶然でしょうかね?」
 というと、
「確かに偶然でしょうね。でも、それだけ酔った時に視力がよくなったような感覚になる人は多いということかも知れないですね」
 と言われ、
「ああ、そうかも知れないですね。でも人間というのは、自分だけが考えているという思いを抱きたいという意識が強かったりするので、人と同じでは嫌だという人が多いんでしょうね。だから、今のような言われ方に複雑な気持ちを抱く人もいるかも知れないですよ」
 と、少し皮肉を込めて言った。
 いつもは、こんな皮肉めいた言葉を口にすることはないのに、どうしたのだろう? ひょっとすると、普段から研究員関係者以外で声を掛けてくる女性などいないと思ってしまったことで舞い上がったのだろうか。
 考えてみれば、小学校の頃など、好きな女の子には悪戯をしたくなるという心理があるということは、知っているはずではないか。実際に見たことはないが、訊いたことはある。それが、今の沢口の気持ちであった。
 確かにその人は綺麗というよりもかわいいという感じのタイプの人で、子供の頃に見た特撮ヒーローものに出てくる女性戦隊によくいるような女性だった。
 小学生の頃は、まだ異性への興味も何もなかった頃、ヒーローものの女性戦隊に邪な気持ちを抱いていた。そのせいなのか、思春期になって気になる女性は、活発な女の子が多かった。新体操をしていたり、水泳の選手だったり、陸上の選手など、躍動感のある女性が好きだった。
「自分にないものを持っている女性を好きになる」
 という理屈もあってか、大人しめの女の子には興味がなかった。
 それなのに、自分のまわりには、そういう大人しい女の子しか集まってこない。それだけに、思春期は、
「彼女がほしい」
 と思いながらも、彼女ができなかったのは、そういう理由からだった。
 大人しい子でもいいという妥協が少しでもあれば違ったのかも知れないが、妥協を一切許さないという性格のため、結局彼女ができないままである。
 そもそも、沢口研究員には、妥協という言葉は知っていても、それがどういうものなのかという実感がなかった。
 研究員として真面目に実直にできるのは、妥協を知らないからだろう。過去に妥協の経験が一度でもあれば、ここまで実直にはできないのではないか。
「妥協というのは、遅かれ早かれ誰でも経験をするものだ」
 という人がいるが、
「沢口に限っては、そんなことはないのかも知れないな」
作品名:恐怖症の研究 作家名:森本晃次