恐怖症の研究
まわりには知られないようにしてはいるが、どうしても、研究室の存続であったり、自分の名誉や研究室の過去の人たちの名前に傷をつけてはならないというプレッシャーを感じているので、手段を選んでなどいられないと感じていた。
「自分にできることは何でもやる」
という覚悟がシビアに表れて、いい意味であろうが、川村教授にとっての目的はハッキリとしていると言ってもいいだろう。
つまり目的とは、目標を達成することが自分にとってどういう最終的な到達点となるかということであろう。だから、
「最終的な到達点」
という言い方をするのだ。
そこをゴールにしてしまうと、それ以上の目標や目的がなくなってしまう。そうなると、どうなるか自分でも分からない。そこにも恐怖を感じる。
「あっ、これだって恐怖心の一種ではないだろうか?」
と考えていた。
世間では川村教授のことを、
「悪党だ」
という人もいるだろう。
しかし、自分では真の悪党だとは思っていない。目標を持って、目的に向かって達成しようという意思と覚悟がある人は、ある意味悪党ではないと思う。なるべく犠牲を少なくしようという意思も含まれているだろうから、一概に、言われている悪党とされている人たちが、皆悪者だとして見てはいけないのではないかと思う。中には、
「必要悪」
のようなものがあって、ある意味その必要悪がいるからこそ、ヒーローというものが存在する。
ヒーローというものは、必ず敵を必要とし、そういう意味で、ヒーローのための悪党だっているはずだ。そのような悪党のことを、必要悪だと考えれば、他にも目に見えない必要悪が存在するのであろう。
目に見えないのは、必要悪の中で、信念という意思と、覚悟があるからで、そういう意味では必要悪は、ヒーローに負けずとも劣らずと言ってもいいのではないだろうか。
川村教授は、ここでつかさと話をしていて、そのことをまた思い出すことができた。
いくら覚悟と信念があったとしても、自分が悪党のようなことを影で考えているということを、自覚したいとは思っていなかった。それだけ大きなものが自分の中にあり、人類の将来を担っているのではないかというほどに考えていた。
「そういえば、初村つかさという女性、自分が昔好きだった女性に似ているな」
と思った。
それは顔もさることながら、佇まいというのか、雰囲気にその面影が感じられた。その時の彼女のことを思い出すのは、いつ以来のことであっただろうか?
あの頃の川村は。高校時代のトラウマから少し抜けていた。ただ、研究熱心なこともあって、一生懸命に研究していると、頭の優先順位が研究に向いてくる。そんな毎日に女性の影も見えてこなかった。
年齢的には、大学院を出てから研究室に入ってすぐくらいの、二十代後半くらいの頃のことである。
研究にふっと余裕が出てくると、それまで見えてこなかったものが自然と見えてくるようになり、その最初が女性だった。
まわりの研究員にはそれぞれ彼女がいて、気が付けば自分だけが一人だった。研究員同士は皆、同じ研究室の仲間ではあったが、最後にはライバルでしかなかった。同じ研究をしている相手は自分にとって利用できる相手だというだけで、そこから友人関係などという関係が生まれるわけもなかった。
そもそも、友人関係などいらなかった。研究が一段落し、精神的に一段落していても、友人関係という欲求の優先順位は低いものだった。どうしても、人間としての欲が最初に来る。性欲であったり、食欲などが優先順位の最初に来た。
これが四十歳を過ぎていれば、もう少し違ったかも知れない。
欲というよりも、もっと違う感情、負の感情が嫌だという方が強くなってくる。その中でも一番強いのは、
「寂しい」
という感情だった。
もちろん、異性に対しての思いの強さは、性欲の感覚もあるので、当然であるが、同性の友人がいないという寂しさも身に染みるようになっていた。
一番の思いは、
「悩んでいる時に相談に乗ってもらえる相手」
という思いであった。
同性にしか相談できないこともあり、要するに女性の感覚では男性を計り切れないという思いであった。
もう一つは、
「自慢できるものを自慢できない」
という感覚もあった。
これは女性であっても、できないわけではないが、男としてのプライドが許さない。別にその人に好かれたいとか、嫌われたくないとかいう感情ではなく、女性に対して自分を曝け出すことが嫌なのだ。
この感覚は、
「裸になること」
と同じもので、相手が男性であれば、どんなに嫌いな相手であっても気にはならないが、女性であれば、何とも思っていない人であっても、恥ずかしいと思うのは、誰もが感じることだろう。
「異性に対してゆえの承認欲求は、性欲と違って反比例するものだ」
と言えるのではないだろうか。
言い方を変えれば、異性に対しての承認欲求と性欲とは、長所と短所のようなものに見える。しかし、実際には違っていて、長所と短所は一見、相まみえないどんでん返しの舞台のように見えるが、本当は、紙一重であり、重なっているところもあるのではないかと言える。
しかし、異性への承認欲求と性欲とは、まったく相まみえないものであり、片方が昼であれば、片方は夜である。決して相まみえるものではなく、重なっているところなど、まったくないものではないだろうか。
承認欲求には女性に格好いいと思われたいという思いや、嫌われたくないという感情があり、それがプライドや見栄として持っているものである。だから、
「好かれたい、嫌われたくない」
という思いが強いのだ。
だが、性欲には、プライドも見栄も関係ない。関係あるとすれば、それは性欲を抑えるための感情であり、性欲だけを考えると、それは欲望という本能であり、気持ちよりも先に身体が反応するものだ。
ある意味、人間の中で承認欲求を持っていない人はいても、性欲のない人というのはいないだろう。それくらいに、性欲という本能は人間にとって大切なものであると言えるのえはないだろうか。
自分が好きになった女性は、自分が承認欲求を感じていた時期であり、研究に没頭している時には表に出てこなかったものだ。それはトラウマによって結界が自分の中で作られていたからなのだろうが、それを与えてくれた余裕というのは、精神的な余裕なのだろうか、それとも時間的な余裕だったのだろうか。自分でもよく分かっていなかった。
女神降臨
川村教授の研究室では、次の閉所恐怖症について研究し始めた。
ここでは二班に分けての研究だったのだが、第一班では、
「今までの研究方針に沿ったやり方」
によって、前の方針を踏襲するやり方を取る方法と、第二班では、
「それまでのやり方を一度リセットして、新たな方法を考えるところから進める」
という、まったく別の観点からの研究であった。
普段ならそれぞれを競わせることはしなかっただろうが、今回、教授は敢えて競わせることにした。
その理由は、まず第一にスピードであった。競わせることで、お互いの切磋琢磨と、研究者としてのプライドとを考えてのやり方だったのだ。