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恐怖症の研究

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 ロボット工学のフレーム問題というのは、ロボットというものに、人工知能を取り憑ける時の話なのだが、ロボットの判断能力に関わる問題で、人間がロボットに命令を与えた時、ロボットは、その命令を忠実に行うだけではなく、状況を判断するという自己判断において、いかに行動できるかというものである。
 人間がロボットに人工知能をつけるのは、当たり前の過程であり、そもそもロボットというのは、
「人間のできないことをロボットの力によってやってもらう」
 というのが、基本だった。
 つまりは、ロボットは、人間よりも力が強く、頑強でなければいけない。それが逆にリスクとなって、ロボット三原則のような、人間を守るという意識を絶対の最優先としてロボットの人工知能には埋め込まなければいけない。
 しかし、ここでいう、
「フレーム」
 というのは、ロボットが自分の意志で行動する場合、次の瞬間に広がっている無限の可能性に、ロボットが果たして対応できるかということである。
 命令に対して、ロボットはいろいろなことを考えるだろう。人間であれば、
「必要なことだけを考えればいいんだ」
 という発想になるのだろうが、それだけではないのだ。
 ロボットの人工知能は人間が作って組み込むものだから、人間ができる状況判断をロボットにもさせようとすると無理がある、
「無限の可能性の中から、必要なものだけを抜き出せばいいんだ」
 ということになるのだろうが、それこそ、
「数ある中の可能性の中の必要な部分だけを考えるように、パターン化して、それをロボットに組み込めばいい」
 という考えになるのだろうが、そもそもが、可能性が無限にあるのだから、そのパターンも無限にあるのではないかという考え方が生まれてきて、またしても、無限ループに入り込んでしまう。
 つまり、
「無限から何で割ろうとも、答えは無限でしかない」
 という考え方だ。
 これは、
「ゼロに何を掛けてもゼロにしかならない」
 という発想と同じではないだろうか。
 この問題を、ロボット工学でいう、
「フレーム問題」
 というのだ。
 だから、ロボットにそれぞれの考えられるパターンをフレーム化して組み込むことができたとしても、結局は考えるのはロボットである。ロボットが人工知能の性能に追いついてこなければ、結局は、ロボットは命令を受けたその瞬間から、動けなくなってしまうということである。
 だが、この考え方は、川村教授が考える発明にはうってつけだった。いや、ロボット工学には向いていなかったというだけで、実際に他のことに関しては「フレーム化」というのは、たいていの場合に説得力のある解決方法ではないだろうか。
 それを思うと、フレーム問題も、いつか解決できるのではないかと思えた。ある一定の方向からしか見ていないので、すべてが無限に見える、見方を変えるとまったく違った見え方になるのではないかと思うと、
「ひょっとすると、無限という概念自体、怪しいのではないだろうか?」
 という無謀ではあるが、画期的に思える考えではないかと感じるのだ。
 考え方には、減算法と加算法があると思うが、これも見る方向が違うからそう思うのであって、同じものなのかも知れない。
 例えば、下から上を見た時の距離感と、同じ長さなのに、逆に上から下を見た時では、かなりの差がある。この錯覚がどこから来るのかということを考えると、そこにあったのは恐怖心であった。
「ここで、恐怖心が繋がってくるんだ」
 と考えると、今回の発明の根幹である、三大恐怖症が思い浮かんできたのおだった。
 減算法と加算法というとまったく違う発想に見えるが、実は同じなのではないかと思う。何もないところから新たに生む加算法、完全な形から余計なものを省いていく減算法。
 これは絵を描いている人から聞いたことがある話なのだが、
「絵描きというのは、肖像画であったり、風景画であっても、目の前にあるものを忠実に描くことが正しいわけではないんだ。時として、感性やインスピレーションで、描くこともある。その場合に余分だと思うものは大胆に省略するというのも、芸術家としてはありだと思うんだ」
 と言っていた。
 真っ白なキャンバスに描いていく絵、これは加算法なのだが、目の前に見えるものを省略するという考え方では、減算法と言えるのではないだろうか。
 加算法と減算法を一緒にして考えているとは言えないかも知れないが、それも、見ている方向が違うだけと考えれば、この発想もありなのではないかと思えてきた。相反するものであっても、相まみえることのないものではない限り、それぞれに共存が許されるのではないかと思うのだった。
 今回の発明に対しても、恐怖心と錯覚という純然たるものがある反面、心理学と科学の融合を恐怖心と錯覚に結び付けようというのは、ある意味、相反するものに対しての挑戦のようなものではないかと考えるのだった。
 しかも、今回の発明はあくまでも通過点。どこを終着点にするかというのは、まだ分からない。
「ひょっとすると、永遠に分からないものなのかも知れない。なぜなら、恐怖症というものが未来永劫増え続けるものだからだと思うからだ」
 という考えの下ではあるが、一旦、
「ここが終着点だ」
 と思って着地しても、着地した時点でさらに先が見えているのかも知れない。
 考えてみれば、人生などそういうものなのかも知れない。
「終着点が見えてしまうと、目標を失ってしまい、達成感の次には、果てしない無限の孤独感が隠れていて、そのパンドラの箱を自らで開けることになる」
 という考えであった。
「そういえば、暗所恐怖症も高所恐怖症も、その状態に入った時に、先だって恐怖を感じるという発想から発展したことだったはずだ」
 と思った。
 これは、高校時代に恋愛に晩生だった自分が、先に進むことができずに焦りまくっていたことへの反省も含まれているような気がする。いい部分、悪い部分とそれぞれにその反省が、今の発明に結び付いている気がした。

           女の目的

 馴染みの居酒屋に、一度ならずも二度までも、記者が自分を訪ねてやってくるというのは、もうただの偶然ではないだろう。何かの目的があってのことだとは思うが、前の門松記者も、何かを探ろうとしているのか、結局、実際の目的も分からずじまいだったのは、心のどこかで、
「別に何かを探ろうという意識はなかったのではないか?」
 と思っていたからだろう。
 だが、もしそうだとするならば、余計にそれを証明しようとすら考えるかも知れない。それをしないということは、本当に心のどこかで思っていたことというのは、ただの錯覚ではなかったかとも考えられる。
 だが、今回の初村つかさという女性記者がやってきたのは、明らかに何かの目的があってのことだろう。門松記者のように曖昧ではないだけに、却って身構えることができるという意味では、気が楽なのかも知れない。何しろ、今日が初対面であり、さっきの記者会見の場面で最後の質問者だったというだけでも、偶然としてはありえないだろう。まるでストーカーのように後ろをつけられていたのではないかと思うと気持ち悪く感じた。
作品名:恐怖症の研究 作家名:森本晃次