恐怖症の研究
「皆さんは、今考えてみようと思われた方も少しはいたと思いますが、考えに入ろうとした瞬間に諦めたのではありませんか? 実はそこに秘密があるんです。先ほどのたとえ話をした時に、皆さんは不思議に思いませんでしたか? 暗闇に入った時、どうすればいいかということを話しましたが、どうして、そのような状況になったのかということを話していませんでしたよね? 何かの現象が起これば、原因があるはずですからね。それが夢であれば、特にそうです。私は恐怖の夢を見た時に、まずは、どうしてこのようなところに入り込んだのかということをすぐに考えてしまうのですが、皆さんはどうでしょうか?」
と訊ねると、ほとんどの人は下を向いて、目を合わせるのを避けていた。
さすがにここまでくれば、質問が飛んでくるのが分かっているので、目を合わせることを誰もがしないようにしているのだ。
教授は反応がないのを承知の上で話し始める。
「恐怖を感じる時、必ずその理由やきっかけがあると思うんですよ。どうしてそんな環境になったのかということをですね。でも、気が付いたらそんな状況になっているので、それ以前のことを一切考えないようにする。それが余計に恐怖を煽る、だから、私はそのことに目を付けたんです。このメガネを嵌めていれば、暗所のように恐怖を煽って、前に進めない精神状態が続いている人の治療に、役立てばと思っているんです。実際に恐怖に陥るまでに、その過程が分からずに、入り込んだ後で、慌ててしまって、すべてがうまくいかなくなってしまうことを防ぐためですね。私は、その恐怖に入る現象は、すべて本人の中にあると思っています。だから、メガネを嵌めて見るということは、自分自身を顧みることのできるメガネでもあるんです。それは精神論ではなく、精神的なことでですね。つまり恐怖というものは、その恐怖を感じる前に、本当のきっかけがあって、その部分を自分で自覚して、入り込まないように自己暗示が掛けられればという発想から開発したメガネなんです」
と言った。
それを聞いていた一人の記者が、教授の話が少し途絶えるのを待って、手を挙げた。
「今のお話は暗所に関してですよね。じゃあ、高所においても同じことが言えるんですか? 高所の場合は、いろいろな原因と言われましたが、その原因も、暗所のように、恐怖の状況に陥ることを最初から分かっているという考えですか?」
「この二つは、原因という意味では、少し突入景気が違うと思います。なぜなら、暗いところが怖い人は、必ず高所恐怖症だとは言えませんからね。逆も同じですよね?」
と教授は言った。
「じゃあ、どっちも予防という意味なんでしょうか?」
「いいえ、予防とは限りません。実際に恐怖を感じるようになった時点で、すでに症状は出ているわけですからね。恐怖症というのは、一旦身についてしまうと、それを払うことは難しいです。そしてその病を患ってしまうと、いつ起こるか分からないということにもなります。それが恐ろしいんです。いつ起こるか分からないから、余計な心配をしてしまう。その状態を拭うことができないと、慢性化してしまって、自覚から、いつ症状が出るか分からないという感覚から、余計なストレスとして身体の中に入り込んでしまうことになるでしょうね」
と、教授は言った。
「じゃあですね、恐怖症というのは、基本的に高所と暗所、そしてもう一つ、閉所というのがあると思うんですが、閉所の方の開発はいかがなんでしょうか?」
と言われて、予期していた質問であったのは間違いなく、
「もちろん、そのことは分かっています。今、閉所に関しては研究中なんです。ただ、閉所恐怖症というのは、高所恐怖症や、暗所恐怖症よりも、少ない事例しかないのも事実なんですよ。高いところや暗いところは日常でも味わえるけど、閉所に関しては、なかなか味わうことはできませんよね。それを考慮して、今研究を続けているところなんですが、いくら事例が少ないと言っても、強引に事例を作るというのは危険ですよね。先ほどの高所も閉所も無理に事例を作ろうとすると、社会問題になりかねない。人間モルモットなどはあってはいけないと思っているので、なるべく、危険のない形での研究となると、難しいところですよね」
というのだった。
「なるほど、分かりました。閉所に関しては、これからの発表をお待ちするということで、先ほどの説明は、正直分からないところがほとんどですが、やはり、それはこれ以上簡単に説明するということは難しいんでしょうか?」
と聞かれたが、今度はそこを司会者の人が話を遮って、
「それに関してはこちらからご説明させていただきます。今のところは、発明に関しての発表ということですので、これから民間企業などとも連携をとりながら、実用化に向けたプロジェクトが組まれることがあると思われます。その際に、スポンサーであったり、医薬系の専門家の方々のご意見を参考にすることもあるでしょうから、今の段階で、お越しいただいている皆様方のご要望のような取り扱い説明などに関しては。まだまだ白紙だということをご承知願いたいと思います」
と説明をした。
「分かりました。ありがとうございます」
と簡単に引き下がった。
これは当然のことであり、それくらいのことは質問をした記者も分かっていることだろう。
だが、それでも聞いてみたかったのは、
「もし、あの司会者が遮らなかったら、教授は何と答えていただろう?」
という記者としての好奇心からであった。
そもそもこの部分に関しては、記事になる部分だとは思っていない。それでも質問をしたのは、今まで落ち着き払ってまったく慌てた様子もない教授がどのように答えるかが見てみたかったからだ。
さすが百戦錬磨の新聞記者、この記者には、教授が最初から緊張していることは分かっていた。それなのに、
「どうしてこんなに平然と話ができるのか。話し慣れているわけでもないのに、どういうことだろう?」
と考えていた。
「覚悟を決めていると言えばそれまでなのだろうが、それだけで説明のつくことだろうか?」
とも、考えていたのだ。
意地悪をするつもりはないが、それだけこの記者が、川村教授に興味を持ったことだ。
言い忘れたが、この記者は女性記者で、このような学術発表の場には珍しいのではないかと思われた。
南陽出版の記者だという彼女は、名前を
「初村つかさ」
というのだった。
質問の時に、自分の社名と自分の使命をいう人は最近では半々くらいだが、彼女はキチンとしているのか、ちゃんと名乗った。もっとも年齢の若い人の方が名乗る人が多いのは、リポーターあるあるで、ベテランになるほど、いきなり質問から入ってきた。
「それにしても、若いのに、よく知っているし、食いつきもよさそうだ」
と、川村教授は感じた。
そもそも、このような場所に来るくらいだから、科学的なことや、SFっぽい話題が好きなのだろう。読書家なのではないかと勝手に思ったほどだ。