着地点での記憶の行方
さすがにヤバいと思ったのか、店を閉めはしているが、店のオーナー連中が集まって、自分たちで警備隊を結成し、時間帯を決めて、夜中の見回りをするようにもなっていたのだ。
本来なら人が立ち寄らないようにするのが目的なのに、それこそ、この状態は本末転倒であり、理不尽な結果は、本当にこの宣言が正しいのかと思わせる矛盾を孕んでいるのであった。
こんな時代がどれだけ続くのか、経営者も辛さ、情けなさを感じていたことだろう。
自分たちが必死で稼いだお金を、簡単に取っていくやつがいるのに、その対策もこのような原始的な方法でしかとることができない。
しかも、盗みを働く連中も、元は真面目に働いていた連中であり、いつ何時自分も同じ立場にならないとも限らないと思うと、いたたまれなくなってしまうのだ。
これを、
「暗黒の時代」
と言わずに何と言うのだろう。
この青年警官も、自分が警らをしている時は同じことを考えていた。
「せっかく警官になって張り切っていたのに、こんな後ろ向きの仕事ばかり、理不尽ではないか?」
と時代を憎んだりもした。
彼は、名前を清水と言った、当時は清水巡査であったが、刑事課に上がると、清水刑事として、それまでとは目線の違う仕事をするようになっていたのだ。
そんな時代を数年間過ごしてきたので、警官の時代は、正直自分でも何をやっていたのかよく分かっていなかった。
しかし、その頃に気になっていたことはあったようで、それは、その頃に危惧することではなく、むしろ、時代が落ち着いてきて、パンデミックが収束することで、世の中の生活が、数年前の正常な状態に戻りつつあることから増えてくるのではないかと思われる犯罪であった。
このパンデミックを引き起こす伝染病は、他の病気のような、空気感染や、血液感染のようなものはない。
インフルエンザや、HIVウイルスのようなものではなく、あくまでも、
「飛沫感染」
が主だった。
つまりは、人との会話、咳などによるもの、そして、飛沫が飛ぶものを素手で触って、それを口に持っていくなどの経緯での感染が大きいとされた。
予防するには、マスクの着用、アクリル板などの設置、そしてアルコール消毒、さらには換気というものが主であった。
一番の基本となるのが、マスクの着用であった。
そういえば、パンデミックが予想される中でのマスク騒動は、かなり深刻だった。
市場には、まったくと言っていいほどマスクがいきわたらなくなり、たまに入荷しても、五分と言わずに売り切れてしまうという状態が続き、朝一番で、薬局には開店一時間以上前から、マスクや消毒液を求めて並んでいるという光景をよく見た。それだけに入荷しても、五分と持たないのだ。
その原因は、
「利益目的の悪徳買い占めがネット上で起こった」
ということが大きかった。
ネットでも薬局でも、
「一人に一つ限り」
と言っているのに、まったく市場に出回らない。
買占めをしている連中がいるのだ。要するに転売目的である。
そのうち、法律が改正されて、転売目的の購入ができなくなったが、すでに後の祭りだった。
普段なら、五十枚入りのサージカルマスクが、五百円未満で普通に販売されていたのに、それすらなくて、ネットで何と、一枚が数万円という、ありえない値段になっていたのに、それでも、購入をしようとする人が後を絶たなかったほどである。
そのため、前代の首相が、何を考えたのか、布マスクの配布を税金で行うという措置を行った。小さすぎて、あまり効果のないものを、税金からかなりの額を支出して、しかもそれを、
「総理、肝いりの政策」
などと言って、全国民にドン引きさせたということも、今は懐かしいくらいである。
実際に、そのマスクが国民にいきわたる前に、マスク不足も解消され、以前ほどとはいかないが、値段も落ち着いてきて、市場にマスクが普通に売られるようになっていた。
しかし、今度は作りすぎたのか、普通に売れ残ったものもあり、しかも、突貫での作業なのか、後進国で安価な人件費による粗末なものを作らせたのか、箱単位で売られているマスクの不良品の多いことには閉口してしまうのだった。
問題はこのマスクに関係のあることであった。
マスク自体の問題ではないのだが、清水刑事が巡査時代から気にしていたのが、
「マスク着用による弊害」
であった。
考えてみれば、一年半前の状況で、インフルエンザなどが流行している時期以外で、街中でマスクをしている人がいれば、それだけで違和感を感じていたはずなのに、パンデミックが起こってからは、マスクをしていない人に過敏に反応し、すれ違おうとすれば、思わず避けてしまう行動をとることになる。
マスク着用は、義務ではないが、していないと、交通機関では断られることもある、まずタクシーは乗車拒否をしてもいいことになっていたり、航空会社では、マスクをしていない客と揉めたりしてニュースになることも多かった。
だが、さすがに、マスクをしていない人を見ると、誰もが白い目で見る時代が一年以上も続くと、マスクをするのが当たり前であり、この生活をずっと以前からしていたという意識が芽生えてくる人がほとんどで、中には、
「マスクをしていないと、何か落ち着かない」
と思っている人も多いことだろう。
そんな異常な時代だからこそ、見逃してしまいがちなことを、清水巡査は危惧していたのだ。
マスク効果の悲劇
世の中が歪んでしまい、人間だけではなく、自然界を含めたところの循環も次第に悪くなってきた。生態系の変化というべきか、細かいことで、いろいろな弊害も起こっているようだ。
これまで定期的な生産ラインがまったくストップしてしまい、山の木の伐採もされなくあったり、海の魚も獲れなくなったりした。これは、ロックダウンを行う都市であったり、緊急事態宣言での休業、あるいは時短要請で、店が閉まってしまったり、あるいは、店を開けていても、ほとんどお客さんが入らなかったりするために、店側が、仕入れを制限することで、生産者も需要がなければ、供給もできないということで、本来であれば、獲るはずのものを獲らなかったり、伐採されるはずのものが伐採されなかったりする。
これまでは、よくも悪くも、その循環で世界は進んできた。確かに収穫しすぎたり伐採しすぎると、弊害が出るので、少しずつ改善していこうという動きはあった。
しかし、いきなりすべてをなくしてしまうということは、元来獲られるはずの生物や、収穫されるはずの食物が収穫されないということは、例えば、天敵と言われる生物が生きていけなかったりすることで、生活圏のバランスが一気に崩れることになる。
それこそ、
「見えにくいが、大きな弊害の序曲」
と言えるのではないだろうか。
一部の学者でそのことを危惧している人も少なくはないが、何しろその証明というのが難しい。論文してまとめる二しても、資料と前提があまりにも欠如しているので、研究しても途中で証明することが難しいということに至ってしまうと、そこから先が見えてくるものではない。
作品名:着地点での記憶の行方 作家名:森本晃次