着地点での記憶の行方
「人を洗脳するというのは、実に感嘆なことでね。それだけ自分の考えが定まっていない人が多いというわけで、占いなどというのが流行っているのもそういうこと。これは、バーナム効果というのだけど、誰にでも当てはまるようなことを、あたかもその人独自の悩みのような言い方をすれば、その人は、どうして自分の悩みが分かったのかって思うでしょう? それだけ悩みを持っている人というのは、自意識も高いの。特に人から諭されている時というのは、自分だけを見て諭してくれていると思うのよね。それだけガードが甘いというのか、相手への依存心が強いというのか、皆、どれも、いい方にも悪い方にも取れる発想でしょう? それが人に暗示を掛けたり、洗脳するということの原点になるのよね」
と言われたことがあった。
そして、その言葉と同じことを、今ここで、あすなからも聞かされた。
「暗示と洗脳って、どう違うんだろう?」
というと、
「暗示というのは、その人と似何かを思い込ませるのは洗脳と同じなんだけど、暗示はその人一人に掛けることで、その人独自の考え方だと思わせること。洗脳は逆に、皆同じ方向を向いていることで、全体として、大きな力に結び付けようとするものなんじゃないかって私は考えているわ」
と、あすなは答えた。
あすな嬢というのは、どういう人なのだろう? かなりいろいろ考えが頭の中でまとまっているようだ。
正直、風俗嬢でここまで考えている人がいるとは思っていなかった。
風俗嬢に偏見など持っていないと思っていたはずなのに、どういうことなのかと、高橋は考えてしまった。
「ねえ、高橋さんは、過去に戻りたいと思っているの?」
と訊かれて、
「それがハッキリと分からないんだ。こっちの世界には、何か意味があってきたのだろうと、国立さんには言われたんだけど、その意味が僕には分からないんだ」
と高橋は言ったが、
「それは気にすることはないと思うわよ。あなたがこの時代に存在したということだけでも、大きな意味があると思うの。でも、あなたはこちらの人間ではない。だから、こちらにきて目的を果たせば、また向こうの世界に戻れるはずよ。そのためには、こちらの世界で、目的以外のことで、余計なことをしてはいけない。それを分かっているから、国立さんはあなたを、私とさくらさんに会わせたの。私もさくらさんも、あなたにとって重要な人なので、あなたがこの世界に余計な影響を与えないという意味でも、さくらさんとの逢瀬は必要だったの」
とあすなは言った。
「じゃあ、あすなさん、あなたは?」
と訊かれて、
「私は、あなたと運命共同体だと言ったでしょう? これからもずっと一緒なのよ」
と言われて、
「よく分からない。それはまるで僕とこれからもずっと一緒に暮らしていくという意味で、結婚を意味するということになるんだろうか?」
と聞くと、
「ええ、そう、これから私はあなたと一緒に、今まであなたのいた世界にいくの。そして、そこにはあなたが戻る世界にこの私が存在しているという世界が待っているのよ」
というではないか。
「今の話を訊くと、僕が戻る世界は、僕が生きてきた世界とは違うところに戻るかのように聞こえるんだけど?」
と高橋がいうと、
「ええ、その通り。そのお話は国立さんからお聞きになっていませんか? 時代を行き来するということは、飛び立った世界から、同じだけ戻るということなの、つまりは、あなたがこっちで過ごした時間、あちらでも時間が過ぎているので、空白の時間ができてしまうんです。本当はあなたがいた時代にあなたがいない。それだけで、世界は違っています。でも安心してください。あなたが戻る世界では、世界は変わっているんですが、あなたがいなかったということはありません。みんな記憶の中では繋がっているんですよ。でも、他の世界に長くとどまるというのは、時間が末広がりに広がっているという観点から、リスクも大きい。そういう意味で、戻ることが約束されている人は、決まった時間しかその世界にとどまることはできない。これは歴史の運命なんです」
と、あすなは言った。
彼女は一体何者なのだろう? 確かに高橋もここまでではないが、タイムスリップなどの発想をいつも抱いていた。だから、あすなの言っている話も分からなくはない。それを思うと、
――彼女の言っていること、すべてが本当のことのように思えてくるし、自分も前から感じていたことのように思えてきた――
と感じてきた。
「でも、一体、どこでどのように過去に戻るというんですか? 今の話を訊いていると、あすなさんも一緒に私と過去に戻ることになると思うんですが?」
というと、
「ええ、それはもうすぐのことですよ。あなたと私はここで結婚するんです。その瞬間に過去に戻ることになるんですよ」
と言われた。
「過去に戻ったあなたは、この世界ではどうなっているんですか?」
と聞くと、
「これは私の勝手な想像なんだけど」
と、初めて前置きをしてから。
「私はこっちの世では、いなかったことになるのではないかと思うんです。過去に戻ってあなたと新たな人生を始める。その時代には私がここまで生きてきた歴史の記憶だけが、私と一緒に過去に戻る。私は向こうに行った瞬間に、こっちの世界とは無縁の人間になるんでしょうね」
とあすなは言った。
これからもよろしくね」
という言葉が聞こえてきたかの瞬間に、それから少しすると、何か懐かしいが、おかしな気分に襲われた。それがタイムスリップの感覚だということを思い出したが、気が付けば、三十年前に戻っていた。
隣にあすながいて、まだ目を覚まさないでいた。
懐かしい光景が目の前に広がっているが、どうも、知らないものも少しあるようだった。知っている人は、皆息災だった。話によれば、未来にいた時間だけ、こちらの世界では時間が進んでいるはずなのだが、それにしても、何かがおかしい。
「今、何年なんだい?」
と、戻った世界で、自分の弟に聞いてみた。
「何言ってるんだい。平成四年じゃないか?」」
という。
「平成四年って、西暦では?」
「一九九二年じゃないか」
というではないか。
頭が混乱してきた。前にいた時代は昭和六十二年。ということは五年が経っているということか?
「数日間のつもりだったけど、五年も経っているなんて」
と、つぶやくと、あすなが目を覚ましたのか、すぐ横に来ていて、
「浦島太郎のようでしょう? でも、時空を超えるということはそういうこと、光速で移動したのと同じことだからね。当然、時代は自分の知っている時代に戻ってくるとは限らない」
というではないか。
「でも、人は年を取っていないよ」
というと、
「それだって、慣性の法則と同じこと。走行中の電車の中でジャンプしても、電車と一緒に人間は移動するでしょう? 同じ理屈なのよ」
「じゃあ、時間という空間が存在していて、その空間を飛び越えたような感じなのかな?」
というと、
「言い方の問題だけど、言いたいことは分かる気はするわ」
と、あすなは言った。
作品名:着地点での記憶の行方 作家名:森本晃次